多くの人々が彼を仰ぎ見た。そして彼を自宅に招き、宴を開いて彼の話を聞きたいと思う人が多かった。しかし、実際にそのようにできる人は多くなかった。彼を慕う人々が多く、貧しい人は考えることすらできなかった。豊かな人々だけが彼を歓待する幸福を得た。
ある日のこと。彼は自分を招いた主に食事に招く人々を変えるように言った。次のような理由からだった。友人や兄弟や裕福な隣人を招けば、彼らがいつかは恩を返す。それは考えてみると、招待をやりとりする行為、つまり相互的な経済学にすぎない。しかし、幸せになるためには、やりとりの関係から自由にならなければならない。体が丈夫でない人々、病んだ人々、貧しい人々を招待してみなさい。彼らはあなたの招待に招待で報いる余力はない。しかし、あなたは「彼らが報いることができないがゆえに幸せだろう」。 これが、彼が言った歓待の逆説であり倫理だった。疎外された人々を歓待することで真の幸福を得ることができるという言葉だった。
きらびやかなレトリックを使わなくても、事物の本質を貫く言葉だった。ロシアの文豪、フョードル・ドストエフスキーが4年にわたるシベリア流刑生活中、イエスの話と行動が書かれた新約聖書にアンダーラインを引き、すり減るほど読んだのはそのためだった。『白痴』、『カラマーゾフの兄弟』のような偉大な小説は、イエスの話の思惟から生まれた。カント、レヴィナス、デリダをはじめとする哲学者がいくら形而上学的な言語で歓待を論じても、彼らの哲学はイエスの話が喚起する歓待の倫理のある種の注釈にすぎなかった。
イエスが亡くなって2000年が迫っているが、イエスの話はまだ有効性を失っていない。当時もそうだが、今でも宴に招待されない社会的弱者が存在するためだ。クリスマスは、弱者のための生活を送った彼の誕生を称える日だ。メリークリスマス。
文学評論家・全北大教授