「ハリーは自分の内面から一人の『人間』を発見する。思想と感情と文化の世界であり、飼いならされて浄化された天性の世界を発見する。また、彼は自分の中にうずくまっている一匹のオオカミを発見する。本能と野性と残酷な天性が浄化されていない野蛮の暗い世界を発見する」(ヘルマン・ヘッセ、「荒野のおおかみ」)これまで準備した映画のシナリオをことごとく崩して、中国の多国籍企業とドラマでリメイクする作業を始めた。最近のドラマと映画は、重苦しい私たちの現実の食もたれでも解消するかのように、時空を超越し、超能力が自然なファンタジーの世界が主流をなす。想像のすそ野がいくら広くなったとしても、人間の内面の激しい省察を通じて存在を解釈しようとする執拗な試みは、いつも純粋な文学の方にある。非凡な超能力人間たちの隙間で日々縮まっていたある日、本屋で嬉しいことにヘッセの荒野のおおかみに会った。若い頃、脂っぽい長髪を後ろに回しながら読んでいた記憶が、私を呼び出した。
この本は、ヘッセがノーベル文学賞を受賞することに大きな影響を及ぼした。主人公の名前(ハリー・ハラー・Harry Haller)を本人の名前(Hermann Hesse)と同じイニシャル(H. H)で名づけて、ヘッセの自我が最も多く投影された作品として知られている。
小説は、ハラーが25年間暮らした都市に帰郷することから始まる。彼は市民の清潔さと細心さがもたらした驚くほど良い香りに誘われて、下宿を選ぶ。しかし、結局ハラーの内面のラフで飢えたオオカミは、この下宿を市民の息詰まる規範が存在する不快なところとして認識する。小説はこのように市民とオオカミの自我が互いに衝突する過程を通じて、人間の内面で彼らが共存することになる生活を描写する。
古典の読書は、理性のかんぬきを丈夫にする精神運動として若者のやるべきこととみなされてきた。しかし、日常に疲れた大人たちも、たまには月明かりでシャワーをするように荒野で泣き叫ぶオオカミの呼びかけに耳を傾けてみるのはどうだろう。