「性格は激しく、愛国心が強く、己未万歳の時に上海に渡り、臨時政府で独立運動に献身・・・」
1946年9月10日付の東亜(トンア)日報で、独立活動家の洪震(ホン・ジン、1877~1946)の訃報が伝えられた。洪震は1926年、上海臨時政府首班である国務領を務め、臨時政府の議会だった臨時議政院の議長を3度務めた。
洪震と仁川(インチョン)が格別の意味を持つのは、洪震が中国・上海に発つ直前に推進した「13道代表者会議」ためだ。弁護士だった洪震は3・1運動の時に連絡責任者として活動し、漢城(ハンソン)臨時政府樹立案に関与する。
4月2日、仁川万国公園(現・自由公園)で、洪震とキリスト教伝導師の李奎甲(イ・ギュガプ)、天道教指導者の安商悳(アン・サンドク)らが参加した「13道代表者会議」は、漢城臨時政府の樹立に向けて糾合した初の会議だった。秘密裏に通知を受けた地域代表や宗教代表約20人が万国公園に到着した。互いを知るために親指に白い紙や白い布切れを巻くことを約束した。
集まった代表は、国民大会を組織し、臨時政府を作って各国に朝鮮独立の承認を求めることを決めた。4月23日正午、ソウル鍾路区瑞麟洞(チョンロク・ソリンドン)の奉春(ポンチュン)館で13道の代表者が集まって臨時政府を宣言し、集会とデモを計画したが、計画が漏れて奉春館での政府宣言式は失敗に終わった。その代わり、ビラで漢城臨時政府の樹立を宣言し、参加者主導で大規模なデモを行った。(ヤン・ユンモ、『仁川での3・1独立運動と漢城臨時政府樹立」』)
光復後に帰国して非常国民会議議長に選出されたが、翌年、心臓病で死亡した洪震は、先祖の墓がある仁川文鶴山の麓に埋葬された。葬儀委員長は白凡(ペクポム)金九(キム・グ)だった。
その後、1994年10月、ソウル銅雀洞(トンジャクトン)国立墓地(国立ソウル顕忠院)に移葬された。
金志映 kimjy@donga.com