マケドニアの王ピリッポス2世は、末の息子として生まれた。父親の王位は兄が継承することになっていて、末っ子は少年時代、ギリシャの都市国家テーベに人質として取られていた。テーベがスパルタを抜いて、ギリシャの覇者に浮上していた時代だった。ピリッポスは20歳になる頃、兄が戦死したため、国王に即位した。王になった彼は、マケドニア軍の改革に着手する。今後一世代の間、世界を号令することになる無敵の軍隊が、彼の手によって調教された。
マケドニア軍は、ギリシャ軍の一般歩兵より約2倍にもなる長い槍を手にしていた。長槍は、両手で扱わなければならなかった。そのため、盾を持つ手がないので、盾を小さくして腕にかけた。長い槍は威力的だが、重く取扱いが大変なので、精鋭中の精鋭兵士を選抜して、1年以上強度の高い訓練を受けさせる必要があった。ピリッポスは、長槍兵を育成しながら、精鋭兵、強軍とはどんな兵士であり、どんな兵士になるべきかにも気付いたようだ。彼は、マケドニアの山岳地帯を占領して、羊飼いたちを兵士として集めた。彼らは寒さと暑さを乗り越え、荒くて険しい寝床やきつい行軍に耐えた。良く言えば、強力な成就欲を持った兵士たちだった。
この軍隊でピリッポスはテーベを制圧し、全ギリシャの覇者となった。さらに彼は、ペルシャ遠征を準備したが、暗殺により、生を終えることになる。彼の息子であるアレクサンドロスは、父親の軍隊を受け継いでペルシャを征服した。
ピリッポスの改革は、彼が一人で創案したものではない。テーベで人質生活をおくりながら、テーベが集合した新しい戦術を学んだ。その中で、あるものはずっと前にアテネ、スパルタの将軍たちが考案したものだった。ピリッポスが気付いた部分は、ギリシャ人たちは新たな軍隊の価値を知らないか、積極的に養成する意志が足りないということだった。
いつもの言葉だが、いかなる天才的発明も空から急に落ちてくるように、白紙の状態で生まれるものなどない。何かの誕生には、それを生ませた先進的な何かがある。天才または革新家は、無から有を創造する造物主ではなく、その何かを先に見る洞察者である。