中国の戦国時代末期、秦が最も旺盛な時だった。秦の東進を趙が阻止していた。趙の将軍は、名将廉頗だった。将軍の知略を離れて、軍隊のレベルは秦が圧倒的だった。このように軍隊と野戦でぶつかったり、攻勢に出ては勝ち目がない。廉頗は守備で一貫した戦略を展開し、秦は防御を貫くことができず苦戦した。ところが、廉頗の善戦で自信が上がると、とんでもないことに趙国の中で不満が芽生えた。この雰囲気を看破した秦は、趙の内部を分裂させる噂を広めた。趙が名将趙奢の息子趙括を司令官に任命することを秦が恐れているという。結局、趙王は廉頗を解任し、趙括を司令官に任命した。
趙奢は趙の名将だった。趙括は父親の名声を慕っていたのか、幼い頃から兵書を熱心に読んだ。ある日、父親と兵法について議論したが、趙奢も息子の意見に反論できなかったという。このような評判まであったので、趙の孝成王は、すぐに廉頗を解任し、趙括を司令官に任命した。すると趙括の母親が、「趙括を将にしてはならない」と上訴した。決定的な理由は、趙奢が生前に、「私の息子は戦争をとても簡単に語る。そんな子を将にしてはならない」と語ったという。
趙括は無謀に攻勢に出たが、趙軍を全滅させ、自分は戦死した。この敗北で趙の首都邯鄲が包囲されて滅亡寸前まで行ったが、楚と魏の援軍がついたので、かろうじて滅亡を免れた。しかし、趙は回復不能のダメージを負い、滅亡の時間を遅らせるに過ぎなかった。「自分は正義、相手は悪」と断定する人。一つや二つの政策ですぐに世界を変えることができると信じている人は、通常、世界を簡単に見る人々である。それでも趙には、このような問題点を知って、自分の子にも拘わらず、将に任命してはならないと上訴する良心的な親がいた。韓国社会は、子に盲目になり、フレームに盲目になり、味方に盲目になった人だけが溢れているのだから、大変だ。
李恩澤 nabi@donga.com