1398年(太祖7年)、鄭道伝は陣法を編纂した。ここで「先守備、後攻撃」という戦術概念が登場した。軍を盾部隊と歩兵-射手-騎兵順に配置して、敵が攻めてきたら盾で陣を張り、敵が迫ってくる間、射撃で最大限被害を与える。この過程で敵が後退すれば、後衛の騎兵を出動させて追撃する。敵が歩兵陣に迫ると、騎兵を左右に出撃させ、側面や後方を攻撃する。または歩兵が戦いながら敵を引き込んだ後、騎兵を出動させて同じ方法で打撃する。
この概念は、当時も議論になった。敵を初戦で制圧したり、積極的に戦わず、守勢的戦闘を繰り広げるような姿勢が気に入らない人が多かったようだ。 「王子の乱」で鄭道伝(チョン・ドジョン)は殺害され、逆賊になった。しかし、驚くべきことに鄭道伝の政敵も、この概念を受け入れた。世宗(セジョン)時代に卞季良(ピョン・ゲリャン)が陣法を見直したが、反対論者たちに対抗して、先守備後攻撃の概念を積極的に擁護した。その後、文宗(ムンジョン)の校正を経ながらも、この概念は生き残った。
先守備後攻撃の戦術は、重武装の歩兵戦闘のような白兵戦力が弱い代わりに、射手と騎兵、両方を組み合わせた弓騎兵が最大の利点だった韓国軍の特性によく合った。もう一つの利点は、柔軟性だ。戦いは波と同じであり、誰も完全に統制することはできない。攻撃があるだけで後退はない。一歩も退かないという覚悟は兵士の闘志としては素晴らしいが、戦術はそのようではだめだ。戦術の命は柔軟性だ。敵を引き込んで包んだ後、皆殺しにすることが最高の戦闘技術だ。
いざこの概念を導入した鄭道伝は、政治における柔軟性を失った。明の押送要求、強くなった政敵らの攻撃に一歩でも押されると終わりだという強迫観念が生じたようだ。遼東攻撃を推進しながら、鄭道伝はさらに「ハード」になった。自分の勢力がますます縮小され、孤立していく事実に気付かなかった。残念だ。彼はなぜ、自分が言った言葉を実践できなかったのだろうか。
歴史学者