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サラエボの銃声

Posted April. 21, 2020 08:08,   

Updated April. 21, 2020 08:08

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1914年6月28日、オーストリア帝位継承者であるフランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーがボスニアの首都サラエボを訪問した。大公夫婦は、ボスニアとセルビアの複雑な国内事情と暗殺の陰謀に全く気づかなかった。いや諜報があったが、信じなかった。サラエボに来る前に訪れた地域で、住民たちが温かく迎えてくれたというのが理由だった。夫婦はボディーガードなしに在来市場を散策し、その雰囲気がサラエボでも続くと信じていた。

最初の試みは、暗殺犯が投げた爆弾が大公夫婦の車を越えたために、あるいは運転手が爆弾を発見してアクセルペダルを踏んだおかげで、後ろの車で爆発した。負傷者が出た。大公は衝撃を受け、恐怖も感じたようだが、毅然とした姿で打ち勝つべきだと考えていたようだ。彼はスケジュールを変えて、病院に行って負傷者を慰めたいと語った。ゾフィーも大公の勇気に同行すると言い張った。

この日の警護は、歴史に記録されるほどめちゃくちゃだった。皆が陰謀の加担者ではないかという気さえするほど、コメディに近い事故の連発だった。紆余曲折の末、大公の車は最後の暗殺犯、最も小柄で、すでに体は病気で死にかけていたが、しかし最高の名射手で真のキラーだったガヴリロ・プリンツィプの前に停止した。彼はわずか2発を発射したが、その一発は大公の首の静脈を、もう一発はゾフィーの胃の動脈を切った。

暗殺犯たちは考えもしなかった結果だったが、この事件で、1000万人以上の命を奪った第1次世界大戦が勃発した。ところが実際にはセルビアなどは、第1次大戦では疎外された。この暗殺の背景であるセルビア、ボスニア、コソボなど、この地域の複雑な情勢は、ほぼ100年間放置された後、20世紀の終わり頃、最悪の内戦に挙げられるユーゴ、コソボ内戦で爆発した。人間は本当に賢明なのだろうか?歴史の中から教訓を得て、高等教育は自分の問題を解決する知恵を伝えるのだろうか?サラエボの銃声は違うという。社会全体が、誰も手を付けられない激流に流されるのを防ぐためにもがいただけだ。

歴史学者


キム・ソンギョン記者 tjdrud0306@donga.com