西暦400年頃、ローマの属国だったエジプト・アレクサンドリアのヒュパティアは、天文学と数学、哲学の天才で、その美貌にもかかわらず真理の探求に没頭した独身女性だ。オリンポスの神々を崇める多神教とユダヤ教が共存していたが、下層民を対象に急成長した新興キリスト教が勢いをつけた。多神教を攻撃し、大規模な流血事態が起こると、皇帝はキリスト教の肩をもち、多神教を異端と規定する。多くの人が改宗するが、ヒュパティアは多神教を固守する。キリスト教の主教キリルは、ユダヤ教とも争う。相次ぐ暴動で死傷者が増え、不満の声が強まると、キリルは信徒の怒りをヒュパティアに向けさせる。徳望と名声のある彼女が実は社会をかく乱する異教徒の魔女だと扇動し、無残にも死に追いやる。
主教の一言で他宗教との争いに躊躇なく飛び込む信徒を見ると、信仰のためというよりも、ただ相手に対する嫌悪のために必死に争うという感じが受けた。判断の基準が理性ではなく感情で、自分の側かどうか、それだけが重要にみえた。自ら考えることを放棄した大衆が扇動される。扇動と捏造が通じるのは、辛い真実より甘い偽りを望み、考える権利を上納した結果だ。いつからかテレビ画面に字幕がつきはじめた。情報を与える役割だけでなく、私たちが見て、感じて、判断する余地まで遮る。舞台の上の歌手を見たいが、客席の表情や審査委員の反応を気にさせる。主観的な見解を持つことを妨害し、画一的な考えを強要する。自分の考えが字幕と違えば、間違ったと思って萎縮する。
いつのまにか私たちは他人と同じ考えをしてこそ安心する受け身の人間になった。同じ形態のマンションを好み、店主の手料理よりも、フランチャイズの統一した味を信頼し、猫も杓子も個性のない整形美人になろうとする。インターネットで多くのニュースに接する時代なので、世の中が移り変わる道理を理解していると自負するが、誰かが事前に選別したニュースにすぎない。
「アゴラ」は広場、民主政治を意味する言葉だ。アゴラの役割をした世界最大のアレクサンドリア図書館は、多神教の本拠地という理由で破壊され、多くの蔵書が失われた。人類はその後千年の間、知識の暗黒期である中世時代を迎える。映画の最初と最後は、宇宙から眺める地球の姿だ。宗教を言い訳に権力争いに明け暮れた人間が、まるで家の前の路で陣取り合戦をして遊んだ鼻たれ小僧のようだ。当時は、地動説が無視され、地球が宇宙の中心という天動説が優遇された時代だった。いくらやっても答えが出ない時がある。最近はそのようなことが多い。他人が当然と言い張った公式を変えてみよう。これまで間違った公式で答えを得ていたかもしれない。