外国人の目に映る自分の姿は、ある時は斬新だが、ある時は感情を傷つける。もう少し傷つけられれば、人種差別だと怒る。韓国戦争に参戦した外国人兵士たち、その大多数が米軍だが、記録を見れば、最初はあまり良くない印象を持っていたが、韓国人の勤勉、聡明、献身的な態度と勇気に感心を表わしたこともあり、我々が聞くには少し気分を害する発言をしたこともある。後者の場合、それが白人優越主義やオリエンタリズムが土台に敷かれた偏見か、当時の率直な印象だったのか、今判断するのは難しい。ただ、戦場の真ん中にいる兵士たちは、緊迫した状況で繰り広げられた出来事についての感想を話すだけで、我々の事情やその背景まで分析して書かれないことが多い。そのような分析は、我々の事情をその兵士よりもよく知っている我々自身がしなければならない。怒りや言い訳ではなく、冷静な視点で。
韓国軍に批判的な記録を残した方も、戦場で出会った一人一人の将兵に対しては好意的であるか、敬意を表したことが多い。長津湖(チャンジンホ)の戦いに参戦したとある兵士は、韓国軍は助けにならなかったという言葉まで口にしたが、後退途中で会ったとあるカチューシャ兵(駐韓米軍で勤務する韓国軍人)に対しては、真の戦士だったというような記憶を残した。個人は素晴らしいが、集団での評価がせちがらくなる。事情はある。韓国軍は、武装と普及が比較にならなかった。内的問題であれば、国と軍に対する信頼、将校に対する信頼が欠けていた。国はイデオロギー的に分裂していた。戦争を経験してそのような部分で信頼が固まると、韓国軍の戦闘力は急速に発展した。
ここで言う信頼とは精神的な信頼、戦友愛を言うのではない。国であれ軍隊であれ、組織には対立と不満がつきものだ。より大きなリスクの前で、そのような対立を最小限に抑え、そういった努力を認められることが信頼だ。今、韓国社会は逆に進んでいる。国が対立を助長し、国民が敵味方を分けて相手を脅迫する。今は国力が強くなったので、この程度の傲慢は許されるだろうか?人類の歴史が指す答えは「ノー」である。
歴史学者