韓国人初の国際機関の首長を務め、2006年にこの世を去った李鍾郁(イ・ジョンウク)元世界保健機関(WHO)事務局長(写真)の人生が、教科書を通じて小学生に紹介される。
韓国国際医療財団は、社団法人・保健教育フォーラムと一緒に小学校5、6年生のための保健教科書「一緒にする保健」に、李氏の内容を盛り込んだと、1日明らかにした。李氏を扱った内容が教科書に掲載されたのは今回が初めて。該当保健教科書は10年ぶりに改正されたもので、最近、京畿道(キョンギド)教育庁が承認したことにより、2021年から全国の小学校で活用できる。
李氏の人生は、患者のための献身そのものだった。ソウル大学医学部在学中に、京畿道安養市(キョンギ・アンヤンシ)のラザロ村でハンセン病患者の面倒を見た。さらに米国留学後、1983年に南太平洋に渡って、積極的にハンセン病患者を治療した。現地では李氏のことを「アジアのシュバイツァー」と呼んだ。1983年、ハンセン病担当医務官を通じてWHO生活を始めた。1993年から地域事務局疾病管理局長、予防ワクチン事業局長、世界の子供ワクチン運動事務局長を経験した。予防ワクチン事業局長時代、世界のポリオの有病率を人口1万人に1人以下に下げる成果を上げた。当時、米国で出版された雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」は、李氏に「ワクチンの皇帝」という名を付けた。
李氏の純愛もいつも話題となった。李氏がラサロ村でハンセン病患者の世話をするとき、ちょうど修道女を夢見てボランティア活動をしていた同い年の日本人・鏑木玲子夫人に会って縁を結び、結婚にまで至った。以後苦しむ患者のためのことであれば、いつも二人が一緒にいた。
2003年、韓国人初の国際機関の首長になった李元事務局長は、在任当時、発展途上国の感染症撲滅に献身した。2005年までに300万人がエイズ治療を受けられる「3by5」キャンペーンを推進して、「公衆衛生の歴史の中で最も偉大な業績」という評価を受けた。新型コロナウイルス感染症のように新しい伝染病が流行したときに、各国がWHOに直ちに報告するよう国際保健規則を変えたのも、李氏の業績と言える。
李元事務局長は、1年に150日間出張に行きながらも「貧しい加盟国の分担金で贅沢はできない」とし、飛行機のエコノミークラスだけに固執し、スイス・ジュネーブの小型賃貸住宅に住んで公用車も使用しなかった。しかし、61歳だった2006年、突然脳出血で倒れ、5年の任期を終えずこの世を去った。以後玲子夫人は夫の意を受け継いで、ペルーのスラム街で女性の自立を支援するボランティア活動を行った。
今回の改訂版の保健教科書には、李元事務局長の生涯と業績がわかりやすく盛り込まれている。韓国国際医療財団のチュ・ムジン理事長は、「『世界の保健大統領』と呼ばれた李元事務局長について、より多くの子供たちが知るようになるだろう」とし、「彼が追求していた奉仕と献身を実践し、保健医療のグローバルリーダーの夢を育てることを願う」と伝えた。
林雨宣 imsun@donga.com