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海が記憶する3度の痛み

Posted September. 11, 2020 08:22,   

Updated September. 11, 2020 08:22

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沈没した旅客船から生存した海女を追跡し、惨憺たる事実を知った。加徳島(カドクト)の老人たちに記憶する過去の事件を尋ねたところ、口をそろえて「韓一(ハンイル)号沈没」を挙げた。「防波堤と海岸に数十体の死体が並べられた光景は今でも鮮明に覚えている。100人以上乗っていたが、生存者は12人だけだった。その日は冬の冷たい風が吹きつけ、波が荒く、数時間泳いで生存したことは奇跡だ。生存者の中に4人の海女がいたが、冬の海に鍛練されていた」と老人たちは語った。筆者は1967年に沈没した韓一号の事故原因を知って驚いた。

1967年1月14日、釜山(プサン)と麗水(ヨス)を行き来した定期旅客船、韓一号(140トン)は、乗客108人と乗組員13人を乗せて麗水を出発した。釜山加徳島(当時慶尚南道昌原郡天加面)北西方向の海上で、海軍駆逐艦「忠南(チュンナム)73」(1900トン)と衝突した。木船の韓一号は大きく破損し、10分後に沈没し、乗客約90人が死亡した。事故調査で、1953年に沈没した昌景(チャンギョン)号(147トン)のエンジンを再使用していたことが明らかになった。昌景号は、米軍の爆撃で沈没した「天山丸」を引き揚げて再使用した船だった。つまり、日本による植民地支配期に釜山と下関を行き来した連絡船である天山丸が、軍船と誤認した米軍の爆撃によって沈没したが、その船体を引き揚げて再使用した船が昌景号だった。昌景号も1953年に沈没し、数百人の乗客が死亡した。その昌景号のエンジンが韓一号に再使用され、またも沈没したのだ。残酷な事故が天山丸から昌景号、韓一号へと繰り返された。

多大浦(タデポ)郷土史学者のハン・ゴン氏(78)は、昌景号が沈没した当時を記憶していた。「昌景号が沈没した多大浦沖合は、花孫台(ファンソンデ)とコリ島の間の花樽亀尾(ファジュンクミ)という狭い海峡です。李舜臣(イ・スンシン)艦隊が釜山浦と多大浦を占領した倭軍を撃退するために釜山に向かう途中、この地点で進むことができず、風が静まるまで待ったという記録があるほど、海流が激しく強風が吹く所です。昌景号は沈没後、月日が経って引き揚げられ、行方不明の乗客の遺骨が船体から発見されました」。釜山~麗水定期旅客船の昌景号の沈没(1953年1月9日)による死者は、乗客名簿に記載された数を上回り、発見されなかった遺体を合わせれば、死者数は300人を上回ると推定された。定員超過と過積載の状態で大波を受けたことが事故の原因とされた。旅客船には救命装備すら備わっていなかった。盗難を心配して会社の倉庫に保管していたという。

空軍機の爆撃(天山丸)、過積載と波(昌景号)、軍艦との衝突(韓一号)と沈没原因は異なるが、旅客船の改造や定員超過、過積載、安全装備の不備による犠牲だった。あまりにも衝撃的な事件だったので、「悲運の韓一号」という大衆歌謡も生まれた。「冷たい北東風が打ちつける夜、喉をしめつけるような叫び/泣くこともできずその瞬間を奪われた多くの命・・・」。加徳島を見下ろす釜山新港は、世界3大コンテナ港を夢見て途方もない規模で拡張しており、超大型船舶は休む暇なく行き来している。平和に輝く海は過去の痛みを消し去ったが、私たちは記憶しなければならない。あの日の悲劇は自然災害ではなく人災だったということを。