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「伝説」マラドーナ氏の死に哀悼相次ぐ

Posted November. 27, 2020 09:12,   

Updated November. 27, 2020 09:12

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「私は偉大な親友を失い、世界はレジェンドを失った。いつか天国で一緒にボールを蹴りましょう」(ペレ氏)

アルゼンチンのサッカー英雄、ディエゴ・マラドーナ氏が25日(現地時間)、心臓麻痺で亡くなった。享年60歳。3日に脳出血を起こして脳手術を受けたマラドーナ氏は、11日に退院した後、アルゼンチンのブエノスアイレス郊外にある自宅で過ごしているうちに死去した。元ブラジル代表のペレ氏(80)とともに、サッカー史上最も偉大な選手に挙げられたマラドーナ氏の訃報に、アルゼンチンのアルベルト・フェルナンデス大統領は3日間の国家哀悼期間を宣言した。ペレ氏とリオネル・メッシ(33=アルゼンチン)らサッカーのスーパースターたちは、ソーシャルメディア(SNS)に追悼の言葉を投稿した。アルゼンチン出身のフランチェスコ教皇も格別な哀悼の意を表した。ローマ教皇庁は、公式サイトで「サッカーの詩人(Poet of Soccer)」が亡くなった」と異例のコメントを発表した。

1960年10月30日、ブエノスアイレスの貧民街で3男4女の長男で生まれたマラドーナ氏は16歳でプロデビューし、17歳で当時では史上最年少で国家代表に選ばれ、華やかなサッカー人生を始めた。サッカー人生の全盛期をおう歌したのは、イタリア・セリエAのナポリでプレーした1986年だった。同年、メキシコ・ワールドカップ(W杯)で5ゴールを決め手アルゼンチンに優勝をもたらし、ゴールデンボール(最優秀選手)まで受賞した。イングランドとの準々決勝では0-0で迎えた後半6分、相手GKとゴール前でボールを争う中で左手でボールをタッチして先制ゴールを決めては、4分後に相手守備6人とGKまで交わして得点する名場面を演じて2-1の勝利をけん引した。

ピッチでは最高だったが、各種の寄行で「悪童」の異名が付きまとった。ナポリ所属だった1991年にはコカイン服用が発覚し15ヵ月間の出場停止処分を受けており、1994年の米国W杯ではドーピング検査で禁止薬物陽性反応を示して大会途中に帰国した。自身の別荘に取材にかけつけた記者にエアーライフルを撃って執行猶予判決も受けた。2008年にはアルゼンチン代表監督に就任したが、2010年の南アフリカW杯でベスト8に止まった。アルゼンチンと中東、メキシコなどでクラブチームを指導したが、指導者としては注目されなかった。

全盛期を過ごしたイタリアでも追悼の熱気が熱い。とくにナポリ住民たちは、マラドーナ氏の顔が描かれたTシャツと写真、ロウソクを持って街に集まって哀悼の意を表した。バルコニーに背番号10番が入ったマラドーナのユニフォームを掲げる家も多かった。

マラドーナ氏は1984年から1991年までナポリ所属で活躍した。1026年に創設されたが万年最下位だったナポリは、マラドーナ氏が加入してからクラブ史上初優勝を含め2度のリーグ制覇と欧州サッカー連盟(UEFA)カップ優勝まで達成した。マラドーナ氏が去ったナポリは、その後リーグ優勝はなかった。2017年にマラドーナ氏に名誉市民証を与えたナポリ市は、氏の訃報を受けてナポリのホーム球場の名称を「ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」に変えることを提案した。


鄭允喆 trigger@donga.com · 金潤鍾 zozo@donga.com