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声を借りた事情

Posted December. 30, 2020 08:49,   

Updated December. 30, 2020 08:49

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芸術は哀れみの産物であることが多い。作家自身がその憐憫の対象に含まれれば、真実性は倍増する。2020年度に全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞した柳美里の小説「JR上野駅公園口」は、芸術がもつそのような属性を実感させる。

東京上野駅周辺に住んでいたホームレスが主人公の小説が、どうして作家自身のための哀れみの産物なのか。彼女も子どもの頃、似たような経験をした。在日韓国人の彼女は、韓国人でも日本人でもなかった。学校に行くと、子どもたちから「細菌」とからかわれた。彼女が配膳を担当する日になると、子供たちは食べ物を食べるのを拒否した。そのような差別に貧困まで加わっては、どこにも属することができなかった。それで作家は、「ホームレスや社会の外れにいる人々について書く時は、隠喩的な意味でホームレスだった自分の幼年時代について書くような気がする」と語った。

小説の主人公は最初からホームレスだったわけではない。故郷の福島に妻もあり、子どももいた。貧困が問題だった。彼は故郷を離れて金を稼がなければならなかった。そのため、37年間の結婚生活の中で妻と一緒にいた期間はすべて合わせても1年にならなかった。それでも愛する家族のための犠牲なので、耐えながら生きた。ところが、息子の死に妻の死まで重なり、彼は崩れた。もはや誰かのために金を稼ぐ必要はなかった。彼が汽車駅の近くで野宿するようになった理由だ。他のホームレスもそれぞれの事情があるはずだった。彼らは、たまに警察が「捜索作業」を始めるとどこかに逃げ、良くなったらまた駅周辺に集まる日常を繰り返した。彼らは押し出されてまた押し出された。主人公はそのような人生を送った後、この世を去った。

作家は、誰も関心を持たない捨てられた生命たちのために、自分の声を貸す。隠喩的な意味でのホームレスだった経験が、彼女を社会的弱者をかばう作家にした。世の中をもっと大きく広く眺め、哀れみの方向が自分から他者に変わった。その変化がありがたくて、まぶしい。