今年で101周年を迎える大韓体育会の1月は象徴的だ。
大韓体育会は18日、第41代会長を選ぶ。新年の最初の月が持つ通常の始まりと出発の意味が、「新しい100年の出発」という大韓体育会そのものの意味と結びつき、さらに大きな重さとして迫ってくる。そのような時期に新しい会長選挙が重なり、大韓体育会の今年1月は、名目上でも実質的にも新しい出発および転換の期待を抱かせる。
しかし、今回の大韓体育会長選挙は、いつになく雑音に包まれている。期待よりは懸念の声がより大きく聞こえる。
今回の選挙に出馬した候補は4人。現職にいた李起興(イ・ギフン)大韓体育会長が再び出馬宣言をし、姜信旭(カン・シンウク)檀国(タングク)大学教授、ユ・ジュンサン大韓ヨット協会長、李鍾杰(イ・ジョンゴル)民族和解協力汎国民協議会代表常任議長も候補登録をした。
候補登録の過程から混乱した。6人以上の人物が名乗り出て乱立の様相を呈し、一部は自ら辞任した。候補に出ようとしたが、選挙法違反による資格問題で途中で降りた人がおり、この人物は退く際に、自分の代わりに押してほしいと特定候補を推薦した。「代打」論議の中、急いで出馬を宣言した新しい候補は、出馬宣言の翌日午前に出馬を翻したが、午後に再び心を変えて登録するなど二転三転した。さらに一部の候補は一本化を試みたが実現しなかったというニュースが広がる中、「野合」攻防も繰り広げられている。候補たちが長年の準備と熟慮の末、独自の所信を持って行動したのか疑問だ。
公約はあまり目立たない。概して体育人雇用の創出と、100歳時代の中の生活体育とエリート体育の結合、学校体育の活性化などについてのもので、似ている上に、長い間提起されてきた問題なので新しいことがないからだ。
その代わり、選挙現場は現執行部と政界の力学関係をめぐる主張が占めている。李会長は今回出馬した候補の一部が政治家出身という点を挙げて、「政治からの独立」を掲げている。他の候補らは、李会長体制で選手への性的暴力や故チェ・スクヒョン選手事態★などによる人権問題が浮き彫りになったことを挙げ、李会長体制を改革の対象だと主張する。単純化してみれば、「体育の独立」と「体育改革」の名分が対立していることになる。
「体育の独立」と「体育改革」は、韓国体育界の重要問題だ。韓国体育界はここ数年、この二つの問題をめぐって極端な経験をした。朴槿恵(パク・グンヘ)前大統領の弾劾へと繋がったチェ・スンシル(チェ・ソウォン)の国政介入事態の真ん中に体育界の不正が置かれていた。これは、体育が政府をはじめ権力の過度な干渉から独立する必要を示している。一方、その後発生した体育界内の性的暴力および人権蹂躙の事件は、体育界がどれほど後進的な状況に置かれているかを克明に示した。また、その後、体育界が相次いで見せた「身内かばい」の行動は、体育界自らの自浄能力を失ったことを証明した。
これは、政治および権力の過度な干渉も牽制しなければならないが、ともに体育改革も続けなければならないという点を示している。体育界の悩みは、この二つの問題を一緒に解決することだ
今回の選挙が懸念されるのは、各候補がこの問題を上辺だけの名分として利用しているだけで、このための具体的な実行策を出していないからだ。また、それぞれ一方の立場を強調して、分裂に拍車がかかっている。
一方の主張どおり、体育界の独立が完全に実現するとしよう。それなら、独立した体育機構内の権力牽制装置はどのように用意するのか。ただでさえ、自浄能力を失った体育界が、外部監視なしに数多くの自己改革を履行できるのか。これまで失敗した自己改革を補完する方法はあるのか。
体育改革を主張する側も同じだ。改革のための具体的な実行策を持っているか。改革を名分に過度な権力が介入する際の牽制と均衡のための補完策を持っているか。体育界の自主性を保障する装置はあるのか。
体育界は長い間、権力の好みに合わせて振り回される「体育の道具化」から脱しようとした。しかし、今回の選挙に出馬した各候補も、体育発展のための真正性なく、ただ体育界を自分の名誉と権力欲のためのツールとして利用しようとしているのではないか。具体的な実行案なしにスローガンだけを掲げる候補を見ると、このような考えが自然に浮かぶ。
李元洪 bluesky@donga.com