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記録を支配すること

Posted January. 12, 2021 08:27,   

Updated January. 12, 2021 08:27

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朝鮮時代に科挙に及第して文官として生きていくとしても「文武兼備」は基本だった。野戦で戦闘をする能力はないにしても兵法書を読み、軍を指揮し、動員・兵站などの軍事行政を処理することは知らなければならなかった。

南原(ナムウォン)の士人だった趙慶男(チョ・ギョンナム)は壬辰倭乱、丁卯、丙子胡乱をすべて経験した。壬辰倭乱のときは、義兵長として戦闘に参戦した。文武兼備に実戦経験まで備えていた彼は、三大戦乱を記録した乱中雑録と続雑録という戦史を残した。戦史の記録物がもどかしいほど不足している韓国歴史において、著者の経歴から見ても内容から見ても、珍しく大切な記録だ。

趙慶男の著書は、他の記録に比べると説明も具体的で豊富な方だ。しかし、戦史としては依然として小略で具体性に欠けている。本人の過ちでもないのが、彼が参照した基本資料と文書が簡単な報告書だったからだ。これは理解できるが、「フェイクニュース」、感情的で単純な戦況分析は誰のせいだろうか。

朝鮮はいかなる社会より識字率が高く、識字層も多い国だったが、哲学的思弁と文学的作文に重点を置きすぎて、実利的思考、六何の原則による科学的説明と実用的作文の訓練はあまりにも乏しかった。このような作文文化は、逆に思考にも影響を及ぼす。戦争を直接経験して事件を目撃しても、目と頭脳が現場の状況を分析するよりも、評論が先に進む。「将軍が怖がって兵士たちが崩れた」「将軍が大声で怒鳴りつけて、逃げる兵士の首を切ると、兵士たちが勇気百倍になって戦った」といった具合だ。

戦場ではそのようなことがあっても、それはほんの一部でしかない。自軍と敵の武装状態がどうで、どんな地形で何メートル突撃したのか、このような問題には関心もない。幾多の変数が支配する戦場を一つや二つの要素で裁断してしまうから、世の中を単純に見るようになり、分析よりは感情的批判が先に立つ。これだから、「フェイクニュース」にも簡単にだまされる。

朝鮮は500年間、この枠組みから脱することができなかった。それも残念だが、21世紀になった昨今、教育や知的風土がかえって過去に退行しつつある。