ヌルハチが撫順を占領し、明の勢力を遼東から追い出そうとすると、明は全力でヌルハチを攻撃した。参戦を要請された朝鮮は1万人を超える兵士を派遣する。1619年に起こったサルフの戦いで明の大軍は惨敗し、満州を失い、最終的に滅亡した。朝鮮軍は劉綎が指揮する東路軍に属して前進したが、清軍に敗れ、劉綎は息子と共に自害し、朝鮮軍の半分以上が戦死する。
120斤の大刀を使った劉綎の別名は「劉大刀」。文禄・慶長の役にも参戦した劉綎は、明では最も評判の良い将帥だった。
咸陽出身の義兵長、鄭慶雲(チョン・ギョンウン)が書いた『孤臺日録』には、この地域に視察に来た劉綎に会った記録がある。地域の有志に会った劉綎は、戦争で苦しむ朝鮮の実情に深く同情し、兵士が略奪したり民間人を困らせたりすることがないよう最大限厳しく取り締まっていると話した。そしてこう言った。「私がいくら厳しく取り締まっても、私の目の届かない所で不法行為が起こるだろう。それを解決するには皆さんが通報するしかない。私ができる限り、誠実に処理する」
鄭慶雲は、劉綎を高く評価し、この言葉が本心だと信じた。しかし、誰が通報できただろうか。劉綎の軍隊が咸陽で組織的な略奪をしたり犯罪行為をしたりすることはなかった。ただ、記念品を盗むコソ泥がいたり、牛馬が盗まれたりする事件があった。鄭慶雲は不平を吐露したものの通報することはなかった。
リーダーがいくら善意を持って行動したとしても、善意が実現されるにはきめ細やかな制度と努力が必要だ。個人と個人の関係でも、好意でした行動が他人に被害を与える時もある。リーダーは善意という言葉で自身の行動を弁明してはいけない。韓国社会では、リーダーが善意を乱用する。善意を掲げて感情に訴えるので、このフレームが猛威を振るう。善良なリーダーに依存せず、方法の正確性を検証する社会が先進国だ。