春かと思ったら春だと思う。春はコロナが終わってから来ると思ったけど、 違うみたい。どうしよう。迎える準備が遅れたから急がなければならない。訪れる春を眺める気持ちは、絶望よりは希望の方だ。日が明るいせいで、しきりにそうなる。「暑い春の日差しに焼けてしまえ」。コロナはすべて消毒されてしまえ」。こんな希望さえ持つようになる。ところが、太陽に消毒されたいのは、この時代の私たちだけではなかったようだ。
今日は、時代を超えて共感できる1本の詩を紹介する。あまり紹介されない、あまり読むことのなかった貴重な詩。まさに詩人キム・ヘスクの「洗濯物」だ。春の日、濃くなる日差しの下で読めば、この上なくぴったりな作品だ。
「洗濯物になる」という言葉を、こんなによく解釈したことは初めて見た。洗濯物になってなびかせたいという願いも初めて聞く。どれだけ苦しい思いをしていたことだろうか。汚れを落とし、きれいな水ですすいで、陽射しの下、白く、ごわごわに生まれ変わりたいという。完全に新しい体は欲であるはずだから、この体のまま、もっときれいに堂々と生きてみたい。わかった。それほど死にそうだったということだ。
気になって体も痛いので、堤防沿いをとめどなく歩いていると、この詩が思い浮かんだ。歩いている洗濯物、また生きたい洗濯物が私だと思う。私だけがそうでもなさそうだ。春は一種の機会であり、よい言い訳だ。春が来たから、もう一度生きてみなければならない。全部忘れて、下に置いて生きてみなければならない。生きるいい訳がもう一つできたので、一生懸命生きてみよう。春風に心が洗われるだろう。新しい服じゃなくても、白い洗濯物みたいに、きれいな洗濯物みたいに。
文学評論家