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朝鮮最初の兵役逃れ

Posted March. 30, 2021 08:16,   

Updated March. 30, 2021 08:16

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文禄・慶長の役の時、水軍の活躍がなかったら、朝鮮の運命はどうなっていただろうか。私たちが考えるよりも苛酷な運命に抗しなければならなかっただろうし、歴史の大きな屈曲になったかもしれない。

水軍は朝鮮で最も待遇の良くない兵士たちだった。朝鮮中期以降、7つの賎役の1つと見なされたほどだった。しかし、水軍が相対的に少なく弱かったわけではない。慶尚(キョンサン)、全羅(チョンラ)、忠清(チュンチョン)地域は水軍が陸軍よりもはるかに多かった。

 

水軍が過小評価された理由は、辛く、死んだり病気にかかる危険が大きかったためだ。権力による不条理と虐待の対象になることもあった。海岸地域の公物には海産物が多かった。塩は全国的な商品だった。水軍兵士たちは、軍服務期間に塩の生産や海産物の採取に動員された。当時の軍船は風浪や波に極度に脆弱だった。病気や伝染病にかかる確率も高かった。逃げる兵士が増えると、政府は水軍世襲制という劇薬処方で対応した。すると水軍役はさらに辛くなり、忌避する役となった。

このような状況が100年以上続いた。文禄・慶長の役の前、戦争準備をしなければならないのに、水軍は兵力も物資も不足した。李舜臣(イ・スンシン)が部隊を巡視して不備な点を指摘すると、将帥らが苦衷を話した。百姓が疲れ、物資も余力もない。李舜臣はどのように対応したのか。「それでもやらなければならない」だった。そして、鄭運(チョン・ウン)のようにやり遂げる部下を好んだ。もし法の通り使役時間を減らし、夜間の使役を禁止していたなら、李舜臣部隊の勝利はなかったかもしれない。

こう話すと、すぐに批判を受ける。このような論理が悪用された事例が多いだろう。しかし、不正を源泉封鎖しようとして盲目的に正しい法をつくって施行を強制したなら、朝鮮は崩壊したかもしれない。正しくないので正しい法に反対するのではなく、賢明なので正しさで繕った愚かな法に反対するのだ。世の中には法で禁止する事案と運用で解かなければならない事案がある。これを区別できなければ、より大きな悲劇を招く。

歴史学者