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地下室の子ども

Posted March. 31, 2021 08:17,   

Updated March. 31, 2021 08:17

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ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」に出てくる人物・イヴァンはこうした質問をする。幸せが誰かの犠牲を前提にしたら、どうなるだろうか。例えば、多数が満腹で幸せで平和なために、一人の子どもが拷問に遭って死ななければならないなら、そのような社会を受け入れることができるだろうか。ファンタジー文学の巨匠アーシュラ・ル・グィンは、「オメラスから歩み去る人々」でそのような実存的状況を示している。ドストエフスキーの影響であることはもちろんだ。

小説の背景は、幸福に満ちたオメラスという都市だ。気品のある建築物、感動的な音楽、華麗な祭典など、すべてがほぼ完璧な場所だ。ところが、その都市が維持されるために満たされるべき「厳格で絶対的な」条件がある。1人の子どもが息の詰まる地下室で、惨めに暮らさなければならないというのだ。その子に親切でも駄目だ。なぜそのような条件が存在するのかは誰も知らない。彼らはハイデッガーが言ったように、その実存の中に「投げ捨てられた」だけだ。

窓もない汚い地下室に閉じ込められて、苦痛にもだえる子供は6歳ぐらいに見えるが、本当は10歳近くになっている。栄養失調と放置のためそうなった。オメラス市民は、誰もが子供の存在を知っている。直接行って確認した人もいれば、聞いて知っている人もいる。子供を地下室から連れ出し、洗って楽にしてやることもできるが、そうなれば、人々はこれまで享受してきた繁栄や美しさ、喜びを諦めざるを得ない。そのため、大半の人々は、地下室で起こる恐ろしいことを知りながら放置する。多数の利益のためには仕方ないということだ。たとえ少数ではあるが、子供を見てその「ひどい矛盾」にうんざりしながら都市を去る人々もいる。主に若い人たちだ。

ル・グィンのアレゴリー小説は、読者を不快な問いの中に投げかける。多数の幸福が少数の悲惨さを前提にするとしたら、どう受け止めるべきか。地下室の子供に喩えられる存在は誰だろうか。誰がその子、その少数者の傷と苦痛、涙を代弁するのだろうか。

文学評論家・全北(チョンブク)大学碩座教授