ジグムント・バウマンという哲学者は、昨今の私たちをこう表現した。「それぞれ自分の保護膜の中に閉じ込められている人たち」だという。このような現代人の特徴は虚しさにある。インターネットの世界は広がり、ソーシャルメディア(SNS)は拡大したものの、アクセスが途絶えた瞬間、この上なく虚しい。虚しいからアクセスするが、アクセスするほどまた虚しくなる。飲むほど喉が渇いていくところでは海水飲みに似ている。
しかし孤独は虚しさとは少し違う。孤独は、一人でいる孤独感を楽しむ状態を意味する。がらんと空いているが、物足りない方ではない。 孤独は空っぽの状態を肯定する。むしろ何事でも空いていなければ満たすことはできない。孤独を通じて、空いていることにしっかり向き合えば、空いているところに自分自身も満たすことができ、意味を見つけることもできる。
「空の庭」は、まさに孤独の詩だ。詩人の李炭(イ・タン)は1964年に東亜(トンア)日報の新春文芸を通じて登壇し、特に虚無、孤独の雰囲気をよく唄った。詩を一度見てみよう。満開の花が散って、庭がからっぽになった。目の前が寂しくなると、心も寂しくなる。この寂しさが苦痛なら、それで目をそらしたいなら、空っぽの庭は虚しさに近くなる。しかし詩人は省察して、むなしさを孤独に変えていく。花がすべて散り落ちて庭が寂しくなったようが、実は空の庭は空っぽだけではない。詩人は、そこに太陽の光に満ちていることに気づく。
何もできずに、苦しい日々がある。何も成し遂げられず、後悔する過去もある。しかし、今すぐ一行の業績がなくても、その時間は永遠に無意味なわけではない。空振りの日も、失った日も、まだ陽がある。依然として日差しがある。空の庭はまるっきり空でもない