会ってから別れた時にずっと考えたい人がいる。そのような人は、私にとっていい人だ。詩集も似ている。閉じた時に何度も思い出す詩がある。人も、人が生んだ詩も、大して変わらない。後でも思い出す詩が私にとって良い詩だ。
キム・ジホン詩人の「コンドゥレご飯」が、まさにそんな詩だ。なぜ好きなのかというと、第一は「ただ」だ。人が人のことが好きなのに理由がないように、心が詩が好きなのに理由などない。それでも、もっと話してみてくださいと言われると、この詩はまるで映画のワンシーンのようだと答える。
映画には台詞一つもなく、ただBGMと演技だけが登場するシーンがある。セリフ一つもないのに、監督の狙いが感じられたりもする。この詩は、言葉で成り立っていながらも、台詞のない映画のシーンに似ている。主人公は冷凍庫の扉を開けて、コンドゥレを取り出してご飯を炊く。一人で囲んだ食膳で、醤油をゴシゴシ混ぜてご飯一杯を全部食べる。ご飯を全部食べたので、腹の中は寂しくないが表情は相変わらず寂しい。主人公にクローズアップされる私たちの視線は、最後の文章を読んでしまう。いくらがんばっても脇役にならざるを得ない人生を、主人公は淡々と生きている。
コンドレと主人公、そして人生の脇役はそれぞれ三つであり、結局は一つだ。三つを一つにする力がこの詩にはある。その一つを捕らえて生きる力も、この詩にはある。そのため、しきりに振り返るようになる。あの柔らかいコンドゥレご飯こそ、この世で一番貴重でなければならないと思って。
文学評論家