ある息子が父親を捨てて逃げた。世の中をさ迷い、日雇いで生きた。ある日、息子は父親が住んでいる所を通り過ぎた。息子は大金持ちになった父親に気づかなかった。だが、父親は違った。50年経っても息子と分かった。一時も忘れたことがなかったのだ。父親はとても喜び、使用人に息子を連れて来るように言った。しかし、息子は誘拐と誤解して抵抗し、気絶してしまった。息子は意識を取り戻すと、どこかに行ってまた雇われの仕事に就いた。
すると父親は、使用人たちに、労賃を2倍にすると言って息子を連れて来させた。父親は、肥を片づける息子のやせた姿を見て心が痛んだ。それで汚れた服に着替えて、肥を片づけることを手伝った。そして息子に近づいて、これから実の子のように接するから、ここで働くように言った。父親はそれほどまでに寛容だった。
しかし、息子はそのような愛と関心を快く思っても、自分が卑しいと考え、肥を片づける仕事を続けた。金銀財宝でいっぱいの倉庫を管理しろといっても同じだった。父親は息子が家に来て、暮らしを率いることを願った。息子は後に父親の心を少しずつ理解し始めた。死が近づくと、父親は彼が本当の息子であることを明かし、すべての財産を譲った。
話に出てくる父親はブッタを、息子は彼の弟子を指す。普通なら、例えを挙げて話すのはブッタだが、ここでは4人の弟子たちだ。彼らは父親の寛容で深い心が分からない息子がまさに自分たちだと告白する。大衆の上にいながら、解脱と涅槃、すなわち個人的な救援に安住するあまり、かわいそうな衆生を救援する大乗的なことを疎かにして申し訳ないと師匠に告白したのだ。老いた弟子たちが一種の反省文を書いたのだ。「妙法蓮華経」に出てくる弟子たちの告白的叙事は苦しむ衆生を不憫に思い、彼らを救済することが最高の法だというブッタのまぶしい教えを今も伝えている。