1950年6月25日朝。この時はまだ開城(ケソン)は大韓民国の土地だった。開城に駐留していた部隊は第1師団第12連隊。開戦と共に最初に攻撃を受けた都市が開城だった。北朝鮮軍第1師団と第6師団が開城方面の攻撃を担い、開城市内に進軍を図った部隊は第6師団だった。北朝鮮軍第6師団は、米軍と韓国軍指揮官が韓国戦争で最も有能だったと認めた北朝鮮軍部隊だ。
第6師団の先頭部隊が開城に近づくと、松岳山(ソンアクサン)の麓で最初の交戦が起こった。当時第12連隊は、他の部隊と同様、3分の1の将兵が休暇で部隊を離れた状態だった。当時、国軍が正常な状態だったとしても、兵力不足で防衛戦線がとても広かった。自ずと防衛が疎かにならざるをえなかった。このように脆弱な戦線に戦車まで動員した北朝鮮軍の最精鋭師団が襲撃したため、国軍が抵抗することは難しかった。北朝鮮軍が侵攻を始めたという報告がソウルに到着した時、すでに司令部では開城が陥落したと判断したほどだった。
戦闘力で圧倒的に劣勢だったが、一瞬にして起こった開城陥落には別の秘事がある。前日、北朝鮮軍部隊が国軍に偽装して、すでに開城市内に潜入していた。彼らは開城市内の小学校の運動場で野営し、未明に市内への進入を図った。侵攻が始まると、開城駅に北から来た列車が到着したが、当時駅に来ていた米軍顧問官が見ると、列車は完全武装した北朝鮮軍兵士で溢れていたという。このような状況で、第12連隊が殲滅せず、一部でも開城を脱することができたのは奇跡だった。しかしその日、開城の第12連隊が完全な編成状態で備えていたとしても、開城陥落の時間を遅らせることはできなかっただろう。
兵力、兵器、軍事費. このような数値は言葉どおり参考用の数字にすぎない。戦争が数字で決定されたなら、戦争史という科目が存在する必要もない。