「おじいさんはなぜ私を見ると笑ったのだろう。私はあのなぞが好きだ。あの恐ろしいおじいさんすら私が好きだったから、果たして誰が私を嫌いになるだろうかというこの世の中への私の親しみと信頼が、その謎の解答だからだ」(朴婉緖の「黄色い家」より)
40歳の時、子供のいる男と再婚し、8歳の男の子を育て始めた時、この文章は私にとって人生の道標であり、毎日記憶し実践する経典だった。「子どもを見るたびに笑おう。私にできる一番大きい笑顔を作ろう。だから世の中に対して親しみと信頼を持たせよう」。
息子の登下校の度に、玄関口でにっこりと笑いながら見送り出迎えた。子どもが自分の部屋から出てくる時も私を探す時も、「あなたと向き合うことより嬉しいことはない」と伝えるために、満面に笑みを浮かべた。結婚前は周りはもちろん、私も他人が生んだ子供を育てるのは大変なのではないかと心配したが、実際に一つの家で暮らすようになると、子供がかわいくてかわいそうで、ただ優しくしてあげたかった。
当時、私は何も持っていなかった。20代半ば、ブラジルに留学し、南米の専門家になるという夢は学位を取得できず、粉々になった。30代半ば、ソウルに戻ってきてやっとの思いで手に入れた雑誌社の記者の仕事も適応できずに諦めた。仕事もキャリアもお金もない私にとって、まだ残りの人生で何か良いことを達成する可能性は、あの美しくて可哀想な8歳の子の良い母親になることだけだった。息子が大きくなって自分の懐を離れた後も、自分と世の中に対する信頼を持たせて生きていけるように育てること。今生でそれだけが、私が成し遂げる唯一の達成であるから、私は必死でなければならなかった。
そんな切実さを抱いて育てた私の息子は、今は25歳だ。世間の偏見と違って、継母になったということは、人生の大きな祝福であり達成だったと言えるようになった。今も息子と出くわす時、世の中で一番明るい笑顔が自然に浮かぶ。