節制された言語に、感情さえ節制されている。形容詞と名詞だけで乾ききったように見えるが、しっとりとした風景を描いている。切れ端の名詞を適切に配列し、形容詞の漂う雰囲気をよく見れば、おぼろげに話者の動線と心境がつかめそうだ。画竜点睛の劇的妙味は、最後の句に盛り込まれる。「せつない人、空の果てにいるね」。この一言は、節制の山場を必死に乗り越えてきた切ない本音だろう。その本音は、うら寂しい秋の夕方を背景に沸き上がった恋心なのか、それとも他郷でのノスタルジアなのか。
「野原をみつめて」という隋の煬帝の詩がある。「冬のカラスがだんだん飛び、流れる水は人里離れた村をぐるぐる回る。夕日が沈もうとするのに、眺める人の心さびしいばかりだね」。この詩を母胎とし、馬致遠は果敢に述語を省略する詩的変容を試みる。換骨奪胎の味を生かしたものだ。
唐時代の詩、宋時代の詞に次いで、この歌は元時代に発展した山曲という韻文ジャンルだ。タイトルの後についている「天浄沙」は、曲調の名前で歌の形式を規定する。元代はモンゴル族が中原を支配した時代。元王朝はモンゴル族を1等級に優遇した反面、主流だった漢族は3等級(北方系)か4等級(南方系)に蔑んだ。詩材と文章力が権力基盤になった社会の雰囲気が変わり、正統詩文よりは喜劇が普遍化し、独立ジャンルだった散曲はまるでオペラのアリアのように喜劇の中の必須要素として挿入された。