内蔵山(ネジャンサン)の紅葉は燃えるように赤いという。たくさんの人がそれを見に行った。もっと多くの人がそれを見たがっていた。しかし、紅葉が赤くなろうが赤くなかろうが関係ない人もいる。昔は好きだったけど、今は何のときめきもない人達がいる。何かが好きで、希望することにも、エネルギーがなければならない。燃えるような赤い紅葉は他人の話にすぎず、自分は果てしなく墜落するような何もしたくなければ「憂鬱」という意味だ。憂鬱だと、私たちの心の中にはたった自分一人だけ入る狭くて暗い部屋ができる。そこに入って二度と出て来ないだろう。こんな時に必要なのは、燃えるような赤い紅葉ではなく、燃える熱い心だ。
今日は、憂鬱な黒い部屋に対抗できる部屋を紹介しようと思う。李昇薰(イ・スンフン)詩人のこの詩には、「千の喜びと千の太陽」がある。一つの喜びも知らないのに、千の喜びとは…。棺おけのような闇に坐った目に、千の太陽とは… この喜びは心臓を破裂させ、この太陽により目はまぶしくなる。詩人は死ぬまでそこには行けないと言うが、この告白は決してあきらめや挫折ではない。死ぬまで、実現できないということを知っていながら、千の喜びと千の太陽を追い求めなければならないということだ。こうしたものを「情熱」と呼ぶ。
生前の李昇薰詩人がそうだった。西洋詩学の最先端であれ東洋詩学の最頂点であれ、詩人は最後の瞬間まで熾烈に追求した。成功したかを問うのは賢明ではない。問わなければならないことは別にある。闇の時代だ。今、私たちは「太陽の部屋」を持っているのだろうか。