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修道士の生活

Posted November. 29, 2021 08:12,   

Updated November. 29, 2021 08:12

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「修道士たちは全く見知らぬ人たちが会い、お互い愛さずに集まって暮らし、死ぬ時は一人も涙を流す人もなく死ぬ」(イタリアのことわざ)

高校を卒業してすぐ「イエス受難会」という修道会に入った。イエスの受難を記憶する修道会精神に従って断食と禁肉、節制する生活が日常な所だった。週末になると、ほかの若者のように外に出て遊びたいし、朝寝坊してソファで思う存分テレビを見たかったが、何も許されたことがなかった。山奥の修道院を訪れた人たちは「こここそ天国だ」と言ったが、幼い青年時代、私は苦しいばかりだった。

私は数年後、修道院を出たが、約20年ぶりに修道院から頼みを一つ受けた。修道院生活規則を整理した「会憲」の翻訳を確認するものだった。ラテン語版、イタリア語版、英語版、韓国語の「会憲」を比較して調べながら、私はこのように暮らしにくい修道会を幼い頃、自ら入ってきた決定がどれほど無謀だったかを悟った。

「規律のないところには修道士もない」という諺があるほど、修道共同体には細かい規則と規律がある。ところが見知らぬ人たちが集まって暮らしていると、言葉は互いに血を分けた兄弟姉妹のように愛しているようだが、ある瞬間から同僚の修道士・修道女が最大の障害物であり苦痛になる。そうするうちに、誰かが死んでも涙を流さない姿を例えたことわざまで出たのだ。

互いに同じ志で集まった修道士の生活もこのようだが、今日の私たちの姿はどうか。このような例のない社会状況で、私たちは常に神経がかりかりしていて、寛大さも慈悲もなく疲れている。お互いに暗く重くなった心を、半分ずつに分けて負うの刃どうか。結局、同じ重さでも、それが心まで分けたものなら、重さの体感は変わるだろう。本当の心で結ばれた二人は、一人よりいいんじゃないかな?愛しながら生きることが大変なら、憎んで生きることは簡単か?