キリスト教徒でなくても誰でも一度ぐらいは聞いたことのある放蕩息子が帰って来る話。息子は父親に財産の分け前を請求し、旅立った。そして歳月が流れ、無一文になって現れた。破れた服と裂けた靴、痩せこけた顔をして。そのような姿で帰って来た息子を見つめる父親の心はどうだっただろうか。その心を表現した単語が「エスプランクニステ(esplanchnisthe)」というギリシャ語だ。ハングルの聖書をはじめ多くの聖書は、この言葉を「惻隠の情」と訳しているが、父親が息子を見て感じる激烈で突き動かされるような心の状態を表現するには不十分に思える。
哲学者マーサ・ヌスバウムによると、この単語は直訳すれば「内蔵を取り出す」あるいは「内蔵を飲み込む」という意味だ。内蔵が揺れ動くような激烈な肉体的反応が加わるような感情という意味だ。息子が贖罪するかしないかは重要なのではない。真面目な長男との公平性も重要なのではない。父親は息子を見るやいなや、腸が引き出されるような感情に包まれ、息子を抱きしめる。レンブラントは、その場面を想像して「放蕩息子の帰還」を描いた。父親の顔と息子のみすぼらしい後ろ姿が描かれた。
イエスが聞かせたこの寓話の核心は、ギリシャ語の単語が呼び起こす感情にある。寓話の中の父親が息子を見て抱く感情は、五臓六腑が揺れ動くほどの感情だ。憐みや不憫に思うこと、愛という言葉さえも世俗的と感じられるほど言葉の限界を越えた過剰な感情、感情の過剰と言おうか。冷たい頭でなく温かい心、いや五臓六腑の奥深いところから生まれる原初的な感情ゆえにそうなのかもしれない。放蕩者の話だけにこの言葉が出てくるのではない。息子を失い、号泣して葬儀を行う未亡人を憐れむイエスの心を表現する時も福音書はこの言葉を使う。これよりも温かく強烈で胸をえぐられる言葉が世の中にあるだろうか。メリークリスマス。
文学評論家・全北大碩座教授