「もう『ミスのない状態』は、嘱望されるピアニストなら当然備えるべき前提条件と考えられる」(ジョナサン・ビス『白くて黒い闇の中で』)
スタジオ録音が普遍化し、演奏会の雰囲気が変わった。ミスのない演奏をつなぎ集めたアルバムに、大衆の耳が合わされたためだ。多くのピアニストの音楽的志向点までが、技術的な完成そのものに変えた。
これと似た変化を、人工知能(AI)学会でも感じる。学会が非対面に転換され、15分の動画が対面発表の代わりになった。学会が終わってからも見ることができるうえ、アクセスも良く、論文は飛ばして動画だけを見る人が増えている。目立つ動画を制作するための競争も始まった。グーグル、メタ(旧フェイスブック)など、巨大AI企業で作った良い研究映像が人々の関心を独占し、英国のある教授は講演映像の製作のために専門アニメーターを雇って話題を集めた。
AI分野で、企業各社が主導権を握ったのは一日や二日前のことではない。大手企業の研究所には実験装置も多い。中堅大学院の研究室では3週間かかる実験を、大企業では1週間以内で終えたりする。このため、学会論文を審査する時に使う実験的検証に対する「量的な物差し」も同時に高くなった。「アイデアはいいのですが、実験規模が小さすぎて実用性の有無を判断するのは難しいです。掲載を断ります」という審査評がよくある。
このような時代に、学校の研究でどのような意味を見つけることができるだろうか。学生たちとの面談中にこのような悩みを分かち合い、思いもよらなかった明快な解答を得た。「企業が解かない問題を解けばいいんです!」。忘れていた単純で古い真理だ。自分だけの研究目標を立てて、自分だけの基準で完成を追求すること。たとえ相対的に注目は少なくても、自分で満足できない研究よりはましではないか。