「息子よ、私はお前を虐待した。すまなかった」。中国の現代翻訳家、傅雷(フー・レイ、1906~66)がピアニストの息子、傅聡(フー・ツォン)に送った手紙の言葉だ。ポーランドへの留学のために息子が北京を発った翌日に書いた手紙だった。
傅雷はそのような罪の意識を感じるほど厳しい父親だった。傅雷は、子どもの全てを統制した。食事作法まで。幼い息子に音楽家の気質を発見し、家で教え始めてからは一層そうだった。息子は10歳の時から、上海交響楽団の指揮者でピアニストだったマリオ・パーチにピアノを習い始めた。そして21歳でショパン国際ピアノコンクールで3位に入賞し、それを機にポーランドに留学した。傅雷は、外国にいる息子に数百通の手紙を送り、音楽の前に人間になり、謙虚であれと教えた。「事がうまくいく時であればあるほど深い水に遭遇する。薄い氷を踏むように慎重で恐れる心を持ち、警戒しなければならない」。それほどまでに厳格だったのは、人は自分自身に厳しくあってこそ大きな器になると考えたからだった。そのおかげで息子は品性の良いピアニストになった。
しかし、時代は傅雷が父親の役割を続けることを許さなかった。狂乱の中国政治は、父親である前に優れた知識人であり翻訳家だった傅雷を右派に追い立てた。傅雷は文化大革命の時、若い紅衛兵に3日間、昼夜を問わず家宅捜索される恥辱を受けた。その時、叔母が傅雷に預けた箱から蒋介石の顔が描かれた鏡が出てきた。傅雷は反動に追いやられた。しかし、無念であっても弁解しなかった。その代わり、妻と共に首をくくって自殺した。傅雷の年齢は58歳だった。紅衛兵によって子は親を失い、中国は当代の学者を失った。
傅雷の手紙を集めた『上海から送る手紙』(国内出版2001年・民音社)が、傅雷がどれほど品格のある当代の知識人だったかを証言する。傅雷は、息子を虐待したと言ったが、手紙を読むと、世の父親が恥ずかしくなるほど広くて深く、温かい父親だった。