昔、スーツを着てネクタイを締めて、お金を稼ぐ職場に行くようになったある詩人がいた。人々は彼の成功をうらやましがった。それで詩人は昼は笑った。ところが夜は詩が書けないと泣いた。私はその夜を盗み見たことがある。あの時、社会的な活動と詩の創作はお互いを押し出すと考えた。外を熱心に見つめれば、それだけ内面を少なく眺めることになるからだ。
ところが、宋竟東(ソン・ギョンドン)詩人を見れば、私の考えが間違っていることが分かる。運動家の宋竟東は、詩人の宋竟東を押し出さない。詩人の宋竟東は、断食をする宋竟東を忘れない。彼がある現場について熱心に悩むと、それは再び詩に熱烈に移される。詩を見れば、どこ一つ美しい風景とは見られないが、彼のたくましさは不思議にも人を眩しくさせる。このような詩人も、私たちにある。いや、私たちにはこのような詩人がいなければならない。
宋竟東詩人は最近の詩集で、「この世界は本当に美しいところだ」と話した。詩人が望む美しい世の中、その中で生きる自分の姿は、今日の詩に刻まれている。それは詩人の心にあり詩の中にあるが、私たちの現実にはない。秋夕(チュソク=旧暦の8月15日)なので、どれだけ多くの宅配便が行き来するだろうか。ところが私たちのそばには、嬉しい宅配箱だけがあり、たくましくまぶしい宅配運転手はいない。