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秋夕と壬辰倭乱

Posted September. 13, 2022 09:05,   

Updated September. 13, 2022 09:10

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秋夕(チュソク=旧暦8月15日の祝日)は韓民族の古くからの名節だ。朝鮮王朝実録を見ると、王室でも秋夕には祭祀を行った。ただ、王室には国家の祭祀、他の重要な祭祀が多いためか、相対的に小ぢんまりとした感じだ。秋夕に秋夕の感じがする記事がない年がほとんどだ。その頃は、国民の大移動もなく、祝日でもなかった。「文昭殿に行って望祭を行った」。この程度が全てであり、平素のように公務を行う。先王に対する祭祀が国家の公式行事という感じなら、祭祀は王室家族の私的な行事というムードだ。

それでも名節は名節だ。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)7年間の秋夕の様子はどうだったのだろうか。が起こった1592年の秋夕に、宣祖(ソンジョ)は義州(ウィジュ)にいた。戦功者への報奨、犯罪者の処刑、軍事の衣服問題、中国軍の軍糧問題…。秋夕に関する言及もない。翌年の秋夕の時はもっと忙しかった。奪回した漢陽(ハンヤン)に戻る途中だったからだ。秋夕の日には、黄海道(ファンヘド)の鳳山(ポンサン)に滞在した。それでも名節のようなことはあった。倭軍から解放された王子たちと会い、家族との再会を果たした。

その後も、壬辰倭乱の間、秋夕の日課は同じだ。簡単な祭祀のような行事はあったが、実録に記録しなかったのかもしれない。戦争が終わった後の記録にも、秋夕の行事が記録されたケースは珍しいからだ。それでも、宣祖の末年になると、秋夕に皇太子が来たとし、その日は何の日課もない。そんなことを見ると、壬辰倭乱の役の秋夕は少し違ったようだ。

民の秋夕はどうだったのだろうか。『乱中日記』にも秋夕の感想はない。李舜臣(イ・スンシン)将軍も、公務、伝染病の心配、家族の心配だけだ。戦乱中には、両班(ヤンバン)も飢え、悲惨な生活を送った人が多かった。彼らにとって、秋夕はあえて考えることすらできないほどだった。

パンデミック後、3年ぶりに帰省客で混雑するという。3年ぶりに再会した家族もいるだろう。だが、パンデミックではなく3年間の戦争だったとすれば、今年の秋夕はどうだっただろうか。わたしたちが平和な名節と再会を楽しむことができるのは、国を守ってきた人々、今も守っている人々のおかげだ。