1930年代に、詩人白石(ペク・ソク)は雑誌で、「口を閉じて考え、怒って悲しめ」と勧めたことがある。怒りを勧めるなんて少しおかしいように見えるが、その当時はみんなうなずいていただろう。彼らは、朝鮮の状況に対して憤らなければならなかった。言い換えれば、絶対多数がたった一つの偉大な怒りを抱いたということだ。
昨今は、一つの怒りはない。偉大な怒りはばらばらに割れた。そして、私たちは皆、それぞれ小さな怒りの持ち主になった。今や怒りは時だけを待っている。誰かが私の肩を叩いたら、積み上げておいた怒りを喜んで爆発させるだろう。万人の万人に対する怒りが始まったのではないかと心配だ。
恐怖が心を冷やす時、この詩を読んだ。ここには、ふやかされた豆が臼の穴からくるくる回る場面が出てくる。怒りの気持ちなら、つまらない豆さえ互いに押し出し合うんだな、と思ったのだろう。しかし、詩人の心は、あの豆が互いに助け合うものだと思った。豆は、全力で相手のただれた目を覆っている。余裕があってのことではない。豆は、私もあなたも軟弱で危ないが、お互いのことを思う。自分が危ないと怒り、相手が弱いと怒りをぶちまけない。
秋には、落ち葉も穀物も暖かい色を着る。人々も暖かい服を取り出して着るが、心は寒い。怒りに真っ青になった心にも、秋の日差しがさしてほしい。