Go to contents

私たちを越えた世界

Posted December. 12, 2022 09:07,   

Updated December. 12, 2022 09:07

한국어

「耳の向こうに音がある。視覚の遠くに風景があり、指の先に事物がある―そこに私は行く。鉛筆の先には線が。考えが消滅するところに発想があり、喜びの最後の息吹にはさらなる喜びが、剣の先には魔法がある―そこに私は行く。つま先には跳躍が。去れば再び戻ってこない人の話のように―そこに私は行っている」(クラリッセ ・リスペクトール『卵と鶏』)

私たちが何かを見るとき、それには常に際(きわ)がある。丸い人の顔、遠くに見える山、波をなす線、机の先に角がある。「越えて」という言葉について考える。私たちの感覚は制限的であるがゆえ、目の前が塞がれている場合、向こうに何があるのか見ることができない。「越えて」ということは、私がいるところと私がいないところが断絶されていることを意味する副詞だ。しかし、このような断絶のおかげで、越えたところに、私の感覚がまだ分からないがゆえに分かることができる可能性の空間が生まれる。

「耳の向こうに音がある」というリスペクトールの短い文章は、大きな響きを与える。私たちは耳で音を聞くが、その事実は音の源が私たちの外に存在していることを意味する。「視覚の遠くに風景があり、指の先に事物がある」という文も、私たちの体の外に私たちが知らない未知の世界が存在していることを感覚的に表現している。そして、作家は自分が届かない「そこへ」、「私は行く」と言う。「そこ」は果たしてどこなのか。私が知らない他人の心かもしれないし、私の感覚がすべて消えた死後かもしれないし、初めて行く旅先かもしれない。

リスペクトールの小説が美しいのは、登場人物たちの前に現れる多くの日常的絶望の中にも、このように未知の世界に対する愛とときめきが含まれているからだ。それゆえ、この短い小説は次のように終わる。「私は愛を語る。そして愛を際に私たちがいる」