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何が韓日の運命を分けたのか

Posted December. 31, 2022 09:16,   

Updated December. 31, 2022 09:16

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19世紀後半の韓国の指導者、高宗(コジョン)と日本の指導者、明治天皇には似ている点が多い。同じ年に生まれ、10代という幼い年齢で王位に就き、開港という課題に直面した。指導者としての能力はどうだったか。著者は、日本の征韓論(朝鮮侵略論)の影響と朝鮮の清軍派兵要請を取り上げて比較する。1873年、征韓論が政界で優勢だったにもかかわらず明治天皇は遣使延期の裁断を下し、近代化に力を入れた反面、高宗は1894年に東学農民運動が起こると、清軍に派兵を要請し、日本を呼び込む決定的なきっかけを提供した。

いかなる違いが韓国と日本の運命を分けたのだろうか。法学を専攻した後、金融、コンサルティング分野に従事してきた著者は、この疑問を解くために独学で両国の近代史に関する本を出版した。経済・経営分野の専門家らしく、著者は本を書いた理由について、「歴史を通じて得る教訓は子孫のための保険」とし、「近代史で持つ被害意識やコンプレックスを取り除かなければ、『ありのまま見る』、『正確に見る』ことはできない」と話す。

哲宗(チョルジョン)が在位した1850年から第二次韓日協約が締結された1905年までの間、朝鮮を悲運の運命に追いやった指導者に対する著者の叱責はよどみない。近代化の過程で祭政一致に回帰した日本とは違って、平等思想を創案して流布した崔済愚(チェ・ジェウ、1824~64)、日本極右陣営の精神的な支えであり代表的な征韓論者で、「富国強兵のための和魂洋才(日本固有の精神を失わずに西洋の技術を摂取する)」を強調した吉田松陰(1830~59)など近代の人物39人に出会うことができる。


チェ・フンジン記者 choigiza@donga.com