Go to contents

子どもとカモメ

Posted June. 07, 2023 08:46,   

Updated June. 07, 2023 08:46

한국어

海辺にある子どもが住んでいた。子どもは毎朝、海辺に出てカモメと遊んだ。数百羽のカモメが子どもを追いかけて遊ぶ姿は壮観だった。ある日、子どもの父親がその話を聞いて、カモメを一羽連れてくるように言った。本当にそうなのか確かめたかったのだ。子どもは翌朝、海辺に行ったが、不思議なことがあった。なぜかカモメが来なかったのだ。

イソップ寓話に劣らない物語集「列子」に出てくる寓話だ。この寓話集の最初の注釈者である張湛は、カモメが子どもを警戒しなかった理由を子どもの純粋な心のためだと解釈する。その心が外に表れ、種が異なる存在とも触れ合うことができたということだ。しかし、カモメを連れて来いという父親の言葉に、子どもは純粋な心を失った。欲のなかった子どもに欲が生まれ、カモメは利用の対象になってしまった。子どもの裏切りに気づいたカモメたちは、捕まらないよう空を飛んだ。双方の存在を繋いでいた糸が切れたのだ。

物語の中の子どもは、比喩的に言えば、人生のどこかで純粋さを失う私たち人間の姿に似ている。カモメと遊ぶ境地には至らなくても、私たちにも純粋だった時代がある。目的のためではなく、行動そのものが遊びであり、行動一つ一つに歓喜を覚えた時期が私たちにもある。だが、ある瞬間、あらゆるものを利用し、それを発展と考え始める。その過程で、私たちは人間さえも利用の対象にする。

世の中の寓話がそうであるように、「列子」に出てくる寓話は空虚な話ではなく、純粋さから次第に遠ざかる私たちの話だ。それでも私たちの心のどこかに、失われた純粋さへの渇望があるように見える。それを完全に取り戻す道はなくても、どうにかして少しでも取り戻したいという渇望。もしかしたら、その純粋さへの渇望が、私たちを少しは、ほんの少しは良い方向に導いてくれるのかもしれない。