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李範奭韓国光復軍将軍の米国人兄弟、サージェント大尉

李範奭韓国光復軍将軍の米国人兄弟、サージェント大尉

Posted August. 19, 2023 08:41,   

Updated August. 19, 2023 08:42

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1953年、韓国戦争が終わった後、ある年配の韓国人が海を渡って米国にいる9歳下の親友の家を訪問した。この韓国人は、米国人の親友の好みを考え、携帯用の金属製の酒瓶を贈った。瓶には、自分と親友を象徴する龍と梟(ふくろう)が仲良く飾られていた。「李範奭(イ・ボムソク)が米国人兄弟に」という文字も刻まれた。大韓民国の初代首相と国防部長官を務めた鐵驥(チョンギ)李範奭将軍(1900~72)が欧米各国の情勢を視察するために歴訪に出た際、旧友のクライド・サージェント元米戦略情報局(OSS)秘密諜報課大尉(1909~81)に会いに来たのだ。

独立記念館とキム・ドヒョン元独立記念館首席研究委員の研究を通じて、「トクスリ作戦」の米軍側指揮官であるサージェント大尉の話を見てみよう。

サージェント大尉は中国学を研究した学者だった。日中戦争前に米コロンビア大学で博士号を取得し、中国の大学で外国語学科の学科長を務めた。中国専門家になったのは、米地質調査所所属の地形学者として中国内陸を横断して旅行した父親の影響が大きかったようだ。OSSが彼を採用したのは1943年頃で、翌年4月に米陸軍大尉に任命された。

李将軍との最初の出会いは44年10月。韓国光復軍第2支隊長だった李将軍が光復軍と米軍の連合作戦を提案しOSSを訪れた。李将軍の招待でサージェント大尉は、日本軍から脱出して光復軍に加わった朝鮮人青年たちに会った。彼らの士気と能力、団結力は驚くべきレベルだった。OSSの訓練を受けた光復軍が韓半島に潜入して情報収集、破壊工作などを行う「元祖韓米同盟」トクスリ作戦は、そうして始まった。

サージェント大尉は終戦後、中国北部地域で韓国人の帰還を助け、米ソ共同委員会の顧問として働き、韓国の政治家と米国の間で交渉の役割を担った。48年に除隊して米国に戻り、81年7月27日に息を引き取った。サージェント大尉は韓国との縁について、「生涯において大きな経験だった」と話した。息子のロバート・サージェント氏は昨年、独立記念館が企画したインタビューで、「父が第2次世界大戦で米国と同盟国である韓国の勝利に貢献したことは家族の誇りだ」と語った。

李将軍とサージェント大尉はともに72歳まで生き、亡くなる1年前にそれぞれ回顧録を残した。米中両国はともに日本に対する韓国の抗戦を支援したが、李将軍とサージェント大尉の回顧録を見ると少し様子が異なる。

臨政は、虹口公園義挙以降、中国国民党政府から大きな支援を受けたが、時には足を引っ張ることもあった。李将軍の表現を借りれば「客軍」の辛さがあった。「中国当局は小さな人事問題まで干渉した。自分たちが誰を指名して中国人で参謀長を出すだとか、処長を出すだとか、協定でない協定を提示し、圧力をかけた。・・・だから難しいことが何度も起こった」(李将軍回顧録『焚火』より)。

米軍との合同作戦は違った。サージェント大尉は、「李範奭とサージェントが共同の目標のために造成した平等、尊重、協力の雰囲気の中で、優れた精神を持った一つの軍団が力を得た」と強調した。米国と中国の覇権的性格の文化的違いがここでも垣間見えると考えることは、考えすぎだろうか。