Go to contents

最も蒸し暑い夏

Posted August. 29, 2023 08:43,   

Updated August. 29, 2023 08:43

한국어

記録的な猛暑が韓半島を覆っている。1950年8月も最高気温が35度まで上がるなど、かなり高温だったという。今年の夏や94年の暑さには及ばないとしても、当時、韓半島にいたすべての人々にとってはこれ以上ない暑さだっただろう。

8月の1ヵ月、韓米連合軍と北朝鮮軍は洛東江(ナクトンガン)沿いの急峻な高地で押しつ押されつの戦いを繰り広げた。韓国にとっては最後の防衛線であり、北朝鮮軍にとっては最後の一歩だった。当時、韓国の山はほとんどはげ山だった。高地の塹壕で敵の銃弾は避けられても、8月の炎天下は避けることができなかった。厚い軍服、鉄帽、水も食料も不足した状況で、兵士たちは熱い銃身を握りしめて戦った。熱中症で倒れた兵士が何人かは統計もない。体力が尽き、精神がもうろうとして判断力が低下し、動きが鈍くなって死傷した兵士は判定すらできない。

その夏の洛東江戦線、この戦闘は私たちが一般的に知っている事実よりももっと危険で熾烈だった。大邱(テグ)も陥落するところだった。あの時、何らかの理由で北朝鮮軍が市街への進入を躊躇しなかったら、韓国戦争の行方はどうなっていたか分からない。

8月16日、米軍はB29爆撃機で960トンの爆弾を多富洞(ダブドン)の全面に浴びせる絨毯爆撃を強行した。この爆撃の効果は視点によって評価が分かれるが、それだけ熱く、激しい戦線だった。

最初に投入された米第24、25師団に続き、伝統の米第1騎兵師団、海兵隊などの精鋭部隊が投入され始めた。そのような準備ができていなかった韓国軍は、訓練も受けていない徴兵兵を投入しなければならなかった。この点は北朝鮮軍も同様で、補給線が長くなり犠牲が増え、戦闘力が消耗し始めた。

仁川(インチョン)上陸作戦前の8月下旬になると、北朝鮮軍はすでに洛東江防衛線を突破する気力は尽きていた。その頃、猛暑が去り、朝晩は涼しくなり始めた。明日のことは分からない戦争だが、兵士たちにとってとりあえず一番嬉しいのは、その涼しさではなかっただろうか。