「端硯竹爐詩屋」
済州(チェジュ)流刑生活を終えた晩年の秋史(チュサ)金正喜(キム・ジョンヒ、1786~1856)が漢江(ハンガン)の鷺梁津(ノリャンジン)が見える龍山(ヨンサン)の川辺の村に滞在していた頃、扁額に刻むために書かれた文字だ。「中国の端溪地域で作られた最高級の稲と茶を煮る竹の火鉢, 詩を詠むことができる小さな家」、この3つさえあれば余生を楽しむのに不足はないという意味だ。与えられた状況に満足して生きる老学者の心が伝わってくる。
宮中と民間の扁額を合わせて朝鮮の扁額114点を紹介する特別展「木に刻まれた心、朝鮮扁額」が7日、国立大邱(テグ)博物館で開幕する。
展示される宮中扁額には、民に対する君主の心が込められている。英祖(ヨンジョ、1694~1776)は、国家財政を管理する官庁である戸曹に下した扁額に「均貢愛民 節用畜力」と書いた。「税金を均等にし、民を愛し、節約して力を蓄えよ」という意味だ。民を愛する心と力のある国へと進もうとする君主の決意を表現した。
正祖(チョンジョ、1752~1800)は「萬川明月主人翁(すべての川に映る明るい月の主という意味)」という号を決めた理由を扁額に書いて昌徳宮(チャンドククン)の尊徳亭(チョンドクチョン)に掲げた。強い王権をもとに理想的な政治を実現しようとした正祖の意志が込められている。
高宗(コジョン、1852~1919)は、滞在していた慶運宮(キョンウングン、現在の徳寿宮)の即阼堂(チュクチョダン)に1905年に「慶運宮」と書かれた扁額を掲げた。「喜ばしい運が満ちた宮」という意味で、国運が危うい時に国の安寧を願う気持ちが込められた。
民間の扁額からは、師と弟子、親と子などの縁を垣間見ることができる。朝鮮後期の書家、李匡師(イ・グァンサ、1705~1777)が息子の李肯翊(イ・グンイク、1736~1806)の書室に掛けるために書いた扁額「燃藜室」が代表的だ。燃藜室は、「藜(あかざ)を燃やす部屋」という意味で、中国の歴史家、劉向が夜遅くまで木を燃やして歴史研究をした結果、大家となったという話から来ている。息子が立派な歴史家になることを願う父の願いを書いたのだ。李肯翊は、後に朝鮮の歴史を42冊に渡って記録した『燃藜室記述』を書いた。
自然風景と調和した亭の扁額も見ることができる。慶尚北道安東市豊川面(キョンサンプクト・アンドンシ・プンチョンミョン)にある「翠潭亭」の扁額は、穏やかな池の風景を形象化したメディアアートと調和して観客を迎える。翠潭亭は「澄んだ青い池」という意味。扁額の下に漢字の意味とその由来を子どもの目線に合わせて解説している。来年2月12日まで。無料。
大邱=イ・ソヨン記者 always99@donga.com