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契丹戦争と丙子胡乱

Posted November. 21, 2023 09:07,   

Updated November. 21, 2023 09:07

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10世紀末から11世紀初めにかけて契丹が高麗(コリョ)に執拗に侵攻した。1018年の最後の侵攻の時、契丹の猛将・蕭排押は必ず高麗を屈服させるという気持ちで大胆な試みをする。騎兵の機動力と現地調達能力を武器に拠点都市と中間補給基地の確保を省略し、一気に開京(ケギョン)まで乗り込み、短期決戦での勝利を狙う。

蕭排押の冒険はほぼ成功するところだったが、「開京死守」を決心した第8代高麗王・顕宗(ヒョンジョン)のより大胆な決定と高麗軍の猛烈な追撃で失敗してしまう。開京入りに失敗したため、契丹軍は飢えと疲労を回復する機会を逃した。疲れて落胆した体で引き返した契丹軍は、亀州(キジュ)城前の野原で姜邯賛(カン・ガムチャン)の高麗軍に会って全滅する。これが亀州大勝利である。

契丹の本当の目標は宋の征服だった。全軍を動員して宋に侵攻した時、背後にいる高麗や女眞が契丹を攻めると両面からの挟み撃ちになる。契丹はまず女眞と高麗を征服し、このような危険を事前に除去しようとしたのだ。

700年後、清が朝鮮を侵攻した。丙子胡乱だ。この侵攻の理由も契丹と同じだった。中国の王朝が宋から明に変わっていただけだ。戦術的目的は少し違うが、先鋒部隊が騎兵として電撃戦を試みたのも似ている。しかし、朝鮮朝廷の斥和派(講和反対派)は清が朝鮮に侵攻する理由を全く知らなかった。清が説明しても信じなかった。清の軍隊が押し寄せても虚勢だと思った。さらに、清の太宗が直接来たとしても信じなかった。「清の太宗がなぜここまで来るのか。この戦争は辺境の将軍が感情的な理由で侵攻したものだ」。

朝鮮の知識人たちは歴史の勉強の重要性を常に強調した。歴史から教訓を学び、実践しなければならない」と強調した。そんな人々が契丹戦争の教訓をなぜ忘れたのか。理念と思想を先に立てて歴史から教訓を得ようとしたからだ。歴史を学ぶというよりは歴史を利用する。目的に合わせて現実を歪曲し、やらなければならないことではなく、やりたいことを叫んだ。その結果が三田渡(サムジョンド)の屈辱だ。再び400年が過ぎた。似たようなことが今も繰り返されている。歴史は回るのだろうか。人間の知性には限界が明確なのだろうか。