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出遅れた万博誘致戦の手痛い教訓

Posted December. 09, 2023 09:23,   

Updated December. 09, 2023 09:23

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先月28日(現地時間)、フランス・パリ郊外の国際博覧会機構(BIE)総会場で、2030年国際博覧会(万博)の開催地がサウジアラビアのリヤドに確定した。国内メディアのスポットライトはこの時点で消えたが、海外メディアの取材はさらに熱くなった。開催地発表直後に開かれたサウジアラビア代表団の記者会見で、海外メディアはサウジアラビアが72%という圧倒的な得票率を得た秘訣に注目した。「1次投票で3分の2を獲得して勝利した前例がなかった」という評価も出た。

海外メディアが分析した核心的な秘訣は、サウジが序盤からリードを固めることに成功したことだ。米国の政治メディア「ポリティコ」によると、アメリカ大陸から来たあるBIE加盟国の代表は、「サウジアラビアが最初から先頭に立ち、『世論戦』で勝利した」と指摘した。

特に昨年7月、早期にフランスのマクロン大統領の公式の支持を引き出したことは象徴的だった。欧州連合(EU)内部で発言力の強いマクロン氏を味方につけたおかげで、サウジの劣悪な人権を問題視する他のEU加盟国の懸念も鎮めることができた。

韓国は、マクロン氏がサウジの側についた同月、首相直属の2030釜山(プサン)万博誘致委員会を設置した。ライバルが世界主要国首脳の支持を確保した時に、遅れて誘致戦に飛び込んだのだ。韓国代表団の血のにじむような努力は認めるが、序盤の対応が遅かったことは否定できない。

むろん、釜山市が万博誘致活動を始めたのは約8年前の2015年、2030釜山登録万博汎市民推進委員会を設立した時からだ。ただ、当時釜山の誘致活動はほとんど見られなかった。

地方政府だけでは力不足だったのかもしれない。それでも文在寅(ムン・ジェイン)政府(当時)は4年前の19年5月に釜山万博誘致を国家事業に確定した。政府がBIEに博覧会誘致申請をしたのは21年6月23日で、同年10月29日に誘致申請をしたサウジアラビアより4ヵ月ほど早かった。中央政府と釜山がこの時からでも積極的に動いていれば、勝機は韓国にあったかもしれない。しかし、韓国は大きな成果なく、政権交代を経て国家的事業に対する集中力も低下した。

この1年間、パリ現地で見守った誘致戦は、「焦るだけのにわか仕事」の性格が強かった。誘致支援組織は大きくなったが、効果的に動いていないという懸念があちこちで提起された。それぞれが体系的に各加盟国を説得するのではなく、ある国が韓国に傾く兆しが見られれば、すべての担当者がその国に集まるという話も聞かれた。

韓国から誘致支援のために多くの人がパリにやって来た。休日もなく遠距離を往復して力を貸した人も多かったが、血税を使いながら表面的な誘致活動だけをした人も少なくなかった。同胞社会で影響力のあるある人物は、「いくつかの市民団体に効果的な誘致方法をアドバイスしたが、あまり関心がなく、適当に要式行為だけして帰るようだった」と打ち明けた。総会直前に釜山から来た一部の市民団体が、パリの外交街やBIE本部付近などではない場所で釜山の広報イベントを開いたことも疑問を呼んだ。

むろん、政府と企業が誘致のために地球を400周したことは無駄にはならないだろう。何よりも官民が共に頑張ったおかげで、ソウルの影に隠れていた釜山の価値を国際社会に知らしめることができた。誘致戦敗北の経験が価値あるものになるためには、敗因を冷静に分析し、今後、別の国家行事を準備する際に反映させなければならない。