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36年ぶりに父の国を訪れたペルーの「黄金の左手」、セシリア・タイトIOC委員

36年ぶりに父の国を訪れたペルーの「黄金の左手」、セシリア・タイトIOC委員

Posted January. 30, 2024 08:20,   

Updated January. 30, 2024 08:20

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「お父さん『ミスター・パク(Mr. Park)の国にまた来る』という長い夢が叶った」

1980年代女子バレーボールで世界最高のアタッカーだったセシリア・タイト国際オリンピック委員会(IOC)委員(62)が1988年ソウル五輪以来36年ぶりに韓国を再び訪れた。2024年江原(カンウォン)冬季ユース五輪を参観するため、先週韓国入りしたタイトさんは、ペルーに帰る前に若い頃の思い出が込められたソウル城東(ソンドン)区にある漢陽(ハンヤン)大学のオリンピック体育館を訪れた。

この会場で行われたペルー対ソ連のソウル五輪女子バレーボール決勝は、五輪バレーボール史上最高の名勝負に挙げられる。第1、2セットをペルーが先取し、ソ連が第3、4セットを獲得した。最後の第5セットでも4度も同点となる大接戦の末、ソ連が17-15で勝利した。体育館を埋め尽くした韓国の観客はペルーを応援した。当時ペルー代表監督が故朴万福(パク・マンボク)氏(1936~2019年)だったからだ。1974年、ペルー代表監督に就任した朴氏は、1980年モスクワ五輪を含め、4度の五輪でペルー代表チームを采配した。「ペルー・バレーボールの英雄」として世界バレーボールの殿堂入りを果たした。

タイトさんは、「父のいない貧しい少女だった私にとって『ミスター・パク』は父のような存在だった。バレーボールを含めた人生のすべてをその人から学んだ」と話した。コートの外では限りなく暖かかった朴氏だが、トレーニングだけは徹底していた。練習が十分でないと思ったら、日曜日にもボールを受けて打たなければならなかった。朴氏の指導の下、タイトさんは16歳で国家代表に選ばれ、1980年モスクワ五輪と1984年ロサンゼルス五輪に出場した。その後、「黄金の左手(Golden Lefty)」というニックネームを得て、世界的な選手に成長した。

引退後、タイトさんはペルーの国会議員になり、女性と青少年スポーツの発展のために励んできた。その後、行政家に変身したタイトさんは昨年、インドのムンバイで開かれた第141回IOC総会で新しいIOC委員に選出された。タイトさんは、「IOC委員になった後、最も嬉しかったのは父の国でユース五輪が開かれるということだった」と言い、「父から学んだ通り、全世界の選手たちをサポートすることに最善を尽くしたい」と話した。


李憲宰 uni@donga.com