「ピカソの絵がなければ、人々はゲルニカの悲劇を記憶しないでしょう」。2023年に死去したコロンビアの画家で彫刻家のフェルナンド・ボテロが生前言った言葉だ。「12歳のモナ・リザ」で有名なボテロは、全てふくよかに描いた。
ボテロが、ピカソの「ゲルニカ」に言及したのは、芸術が重要であることを強調するためだった。「なぜなら、人々が忘れ始めたときに、何が起こったのかを思い出させてくれるから」。1937年4月26日、ナチスがスペイン北部のバスク地方のゲルニカ村を爆撃し、約2千人を殺害した。怒りと悲しみと恐怖を激情的に形象化したピカソの絵がなければ、人類は今頃その悲劇を忘れていたかもしれない。
これは、ボテロが「アブグレイブの虐待」連作を描くようになった理由を説明する過程で出た話だった。ボテロは2003年、米軍兵士たちがイラク人の捕虜を虐待する様子が写った写真を見て激怒した。恥辱と侮辱を受ける捕虜たちの姿に胸を痛めた。それが1年半にわたって約80点の絵を描く作業につながった。それはピカソがナチスの蛮行を知り、「ゲルニカ」を描き始めたのと似た状況だった。ボテロはその時期を「挿入口」や「括弧」と呼んでいる。それらの絵が通常の軌道を外れたということだ。美しさを画幅に収めるべき画家が、人間が人間を虐待する醜いシーンを描くのは正常ではなかったからだ。
米国の美術館は、欧州とは違って、顔色をうかがい ボテロの絵を展示することに消極的だった。そこで、カリフォルニア・バークレー大学が乗り出した。ボテロは大学図書館での展覧会を成功させ、60点の絵を大学に寄贈した。今も法科大学院の廊下には、4点の絵が展示されている。大学院長だったクリストファー・エドリー教授の言葉通り、「法を専攻する学生に、無法な道徳的な真空状態で何が起こりうるかを知らしめるためだ」。芸術が必要な理由の一つである。