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「モンクラールの道」で見つけた文化遺産ストーリーテリングの力

「モンクラールの道」で見つけた文化遺産ストーリーテリングの力

Posted June. 28, 2024 08:51,   

Updated June. 28, 2024 08:51

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「愛する息子、ロランへ。お父さんはお前のような幼い韓国の子どもたちが道で、土で、雪の中で迷わないようにするためにここに来た」

韓国戦争に参戦したフランスのラルフ・モンクラール将軍(1892~1964)が1950年12月23日、当時生後11ヵ月の幼い息子に送った手紙だ。「過酷な寒さで指が凍り、銃を撃つことさえ困難だった」その年の冬、モンクラール将軍は中共軍の猛攻撃に耐えていた。翌年2月、彼が率いるフランス軍と米軍第1連隊が京畿道楊平郡砥平里(キョンギド・ヤンピョングン・チピョンリ)で38度線から下に押し寄せてきた中共軍第3師団と対峙した。5対1の圧倒的な兵力差のため、戦術上有利な高地を捨てて平地に円形陣地を構築した決死の戦いだった。第1次、第2次世界大戦を経験した百戦錬磨のモンクラール将軍の指揮の下、銃剣を持った白兵戦の不屈の戦いを繰り広げた結果、連合軍は中共軍参戦以来、初の勝利を収めることができた。韓国戦争史に伝説として残っている「砥平里戦闘」だ。

モンクラール将軍は、韓国戦争に参加するために自らフランス陸軍中将から中領に4段階も階級を下げた。大隊単位のみ派遣することにしたフランス政府の方針のためだった。将星から領官級将校に降格してまで戦争に参加した理由について、モンクラール将軍は、「もうすぐ生まれる子どもに、私がフランス初の国連軍の一員として参戦したという誇りを伝えたい」と話した。

最近、KTの子会社であるストーリーウィズと(株)砥平里文化コンテンツが、砥平里戦闘でのモンクラール将軍の話をウェブトゥーンとウェブ小説で制作することを決めた。これに先立ち、昨年、国家報勲部は砥平里付近の南漢江(ハンガン)自転車道3421メートル(参戦したフランス軍3421人を意味)を「モンクラールの道」として造成した。南漢江の素晴らしい景色を眺めながらライディングを楽しむ旅行者は、この区間を通過するたびに自由のために献身した連合軍の話を思い浮かべることができるだろう。

地方自治体ごとに地域の文化遺産を観光資源として開発する最近の傾向と相まって、砥平里の事例に注目する必要がある。単に道を造成するだけでなく、ここにまつわるストーリーをウェブトゥーンなどで展開する「ストーリーテリング」を組み合わせたからだ。有名人や場所を記念する立看板を立てるだけでは、人々を引き付けるのに限界がある。例えば、公州(コンジュ)の公山城(コンサンソン)の場合、数年前、ここで漆塗りの鎧が発見されたことで、新羅軍と最後の抗戦を繰り広げた義慈王(ウィジャワン)が悲壮な儀式を行うシーンを思い浮かべることもできるだろう。

遺構と遺物の意味は、その場所が持つストーリーテリングに大きく左右され得る。古代ローマの保養都市だったトルコのヒエラポリスにある「古代プール」が代表的だ。ここの温泉場の床に敷かれた2500年前のローマ時代の彫像と柱は単なる装飾ではない。観光客はこれを直接踏むことで、692年の大地震で崩壊した古代文明の痕跡を全身で感じることができる。

慶州(キョンジュ)が韓国を代表する歴史都市になったのも、新羅の古墳発掘のストーリーテリングのおかげだった。1970年代、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の主導で推進された皇南大塚(ファンナムデチョン)などの大型の積石木槨墳の発掘は、新羅の黄金文化の華やかさを象徴的に見せたからだ。朴大統領が71年に「慶州観光総合開発計画」を自ら立案し、発掘遺跡を併せたように、文化遺産にストーリーテリングを加える政策を真剣に考える時だ。