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「AKMU」が学校に通っていたら、韓江氏に感動を与えることができただろうか

「AKMU」が学校に通っていたら、韓江氏に感動を与えることができただろうか

Posted October. 18, 2024 08:28,   

Updated October. 18, 2024 08:28

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「どうして私が、どうしてあなたを/その後の私たち、海のように深い愛が/すべて干上がってしまうまで待つのが別れなのに」。この歌を発表した2019年当時、兄イ・チャンヒョクは23歳、妹のイ・スヒョンは20歳だった。愛、別れ、死を何度も経験した中高年ではなく、20代になったばかりの兄妹が書いたということに驚かされた。

この歌でノーベル文学賞作家の韓江(ハン・ガン)氏を感動させた楽童ミュージシャン(AKMU)は、学校に通った期間は長くはなかった。兄妹は小学生の時、宣教師の両親と共にモンゴルに移住し、そこで正規の学校に行かず、ホームスクーリングで勉強した。最大の理由は、「ご飯に醤油をかけて食べ、ジーンズを買うこともできない」家庭環境だった。

しかし、この環境のおかげで、AKMUの天才性は開花した。楽譜も書けなかったが、兄が鼻歌を歌えば、妹はメロディーを作り、ご飯の上の目玉焼きを歌にした(「フライの夢」)。0時間目から補習まで続く授業の時間割の代わりに自由が与えられ、学校が定めた教科書の代わりに好きな小説の本を手に取ることができた。両親は、ホームスクーリングの初期に学校のように時間割を作って数回やってみたが、破ってしまったという。代わりに、子どもたちがつららを見ながら文章を書き、歌を口ずさむ姿を見ると、「本当に上手だ」と大袈裟に褒め、それがうれしくてさらに頑張ったと振り返った。

韓氏も、父親の韓勝源(ハン・スンウォン)作家の回顧によると、幼い頃、一人で部屋に横になって空想を楽しんだという。同年代の子どもたちと一緒に遊ばず、どこに行ったのか探してみると、一人で自分の部屋に横になってぼんやりしていることが多かったという。何をしているのかと聞くと、「空想している」と答えたそうだ。せっかちな最近の親なら、子どもが社交性がないと言って遊戯教室やテコンドー教室にでも連れて行ったかもしれないが、父親は「起きて勉強しろ」「外で遊べ」と言ったことはなかった。代わりに本業である執筆をし、娘はそれを見て育った。

韓氏とAKMU。彼らを「天才」という言葉で結びつけるのは少し浅はかだ。それよりも、自由な環境と思う存分悩み、空想し、挑戦できる幼少期が作った「美しい人々」だ。しかし、彼らを見守る韓国社会は、歓声を送ると共に焦燥に駆られた様子だ。早くも「第2の韓江」を出さなければならない、第2のAKMUを生み出さなければならないと騒いでいる。塾街には「韓江のように文章を書く」、「韓江読書スタディ」の広告が掲げられ、親たちはライティング教室を探している。書店の売り場には「韓江のような子どもの育て方」などの本が並ぶ日も近いかもしれない。すべての偉大な人物の物語の最も重要な部分を勉強法と教育法に置き換え、結局は私教育に還元させるこの国の慢性病がまた始まったようだ。

ノーベル賞は世界1位に贈られる賞ではなく、強いて言えば、誰よりも多く悩み、共感し、失敗しながらも再挑戦した人に与えられるものだ。第2の韓江、第2のAKMUが出てくる必要もなく、出てくることもできない。人はそれぞれ違うのに、「第2の誰」が出てくる必要があるのだろうか。子どもに与えられた気質を信じて育てていけば、いつか彼らの人生に花を咲かせる時が来るのではないだろうか。たとえそれがノーベル賞でなくても。