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「救急室漂流」終わっても苦痛…政府対策5年間空回り[ヒーローコンテンツ/漂流⑤最終回]

「救急室漂流」終わっても苦痛…政府対策5年間空回り[ヒーローコンテンツ/漂流⑤最終回]

Posted April. 04, 2023 08:14,   

Updated April. 04, 2023 08:14

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「お母さん、僕は生きているよ!」

先月10日、亜洲(アジュ)大学病院で会ったイ・ジュンギュ君(14)が天真爛漫に笑いながら母親を慰めた。ジュンギュ君のリハビリ治療を見守っていた母親のチェ・ユンヨンさんは、その笑顔にまた打ちのめされる。ユンヨンさんは背を向けて涙を拭いた。

昨年12月8日、ジュンギュ君が脳出血で倒れて救急車の中で経験した228分間の「漂流」は、ジュンギュ君と家族の生活を一変させた。

手術後、ジュンギュ君は奇跡的に目を覚ましたが、階段を1段上ることも、簡単な言葉を覚えることも、手術前と違って困難になった。毎日水泳をし、母親の手伝いをする頼りがいのある子どもだったジュンギュ君は、幼い子どもに戻ってしまった。あの日のことを覚えていないジュンギュ君は、母親が泣くたびに「お母さん、どうして泣いてるの」と尋ねる。

「漂流」は終わっても、「漂流」が残した傷は深い。左足を失ったパク・ジョンヨルさん(40)もそうだ。昨年10月25日、378分間のたらい回しの末、手術医には出会えたものの、足を生かすことはできなかった。あの日の無力だった記憶と将来への不安がジョンヨルさんを苦しめている。妻と子どもたちまで不安にさせるのではないかと思い泣くのを我慢していたジョンヨルさんは、事故の日の後、一度だけ泣いたという。どうしても我慢できず、患者服姿で大通りに出て大泣きした。ジョンヨルさんは、5ヵ月が経った今でも精神科で治療を受けている。

ゴールデンタイム内に治療を受けていれば、味あわずに済んだであろう苦しみだ。このような苦しみを抱えている人がどれだけいるのか、誰にも分からない。ジュンギュ君とジョンヨルさんは、東亜(トンア)日報ヒーローコンテンツチームが救急医療現場で出会った一般的な「漂流」患者の一人だが、政府のどの統計も彼らのような経験をした人がどれほどいるのか正確に記録していない。

「大韓民国に住んでいるけど、大韓民国の国民ではないようだった」と当時を振り返ったジョンヨルさんは記者に尋ねた。

「いつかうちの子どもたちが怪我をしたらどうしたらいいでしょうか。私はそれが心配で眠れないんです」



●漂流、その後

イ・ジュンギュ君

「お母さん、どうして僕の髪はこんなに短いの」

ジュンギュ君が目を丸くしてユンヨンさんに尋ねた。短く切った髪の毛の間に縫った跡がはっきりと見える。ここを切って頭蓋骨を開き、脳血管を縫い合わせる手術を受け、ジュンギュ君は生死の境をさ迷った。昨年12月8日のことが記憶にないジュンギュ君には、鏡の中の自分の姿が見慣れない。

ジュンギュ君とは違って、ユンヨンさんはジュンギュ君が倒れたその日の「1分1秒」を鮮明に覚えていた。

「手術が終わりました。(子どもが)目を覚ますかどうかは、断言できません」

白目が真っ赤に充血するほど5時間も手術室の前で動かずに待っていたユンヨンさんに医師は言った。死亡率40%と言われていた。脳血管が破裂して救急車で病院を探し回ったのだから、そうなることも仕方がない。ユンヨンさんは祈った。脳が損傷して言葉が話せなくてもいい、他の障害が生じてもいい、どんな姿でもいいから生きてさえいてほしい、私のそばにいてほしい。一週間で病状が悪化し、手術同意書に再度署名する時も、ユンヨンさんはそれだけを願った。それがユンヨンさんに期待できる最大の奇跡のように思えた。



亜洲大学病院で手術を受けてから13日が経った日、ジュンギュ君は目を覚ました。

ジュンギュ君は意識を取り戻した後も、しばらくの間、母親を認識できなかった。何も話さず、一日中眠るだけだった。徐々に認知能力が回復し、母親を認識し、友達のことも覚えていた。ゆっくりと言葉を話し始めた。長く記憶できないため、同じことを何度も繰り返して尋ねたが、ユンヨンさんは全てのことにただ感謝した。

亜洲大学病院に行って33日後の1月10日、ジュンギュ君は京畿道華城市(キョンギド・ファソンシ)の自宅に戻った。しかし、ユンヨンさんはジュンギュ君を一人にすることができなかった。ジュンギュ君は携帯電話を長く見るだけで頭が痛いと言った。階段を一段上ることも難しかった。そんなジュンギュ君のことがユンヨンさんはいつも心配だった。あの日のように倒れたら、あの日のように病院で受け入れてもらえなかったら…。あの日を繰り返さないためには、ジュンギュ君のそばにいなければならない。いつでも病院に連れて行けるようにしなければならない。

ユンヨンさんは会社の了解を取り、しばらくジュンギュ君を連れて出勤した。手術後、幼い子どもになったジュンギュ君は、出勤する母の車に一緒に乗り、無邪気に外を見回した。いつの間にか母の身長に追いついたジュンギュ君の足取りは、ユンヨンさんを不安にさせたが、ジュンギュ君は母の同僚からもらったおやつを手にしてただ喜んでいる。

ジュンギュ君が何も分からないことが、むしろ幸いだった。ジュンギュ君はあの日、頭が痛くて学校に行かなかったことも、心臓の鼓動が遅く、停車した救急車の中でぐったりしていたことも覚えていない。ユンヨンさんは今でもあの日のことを夢見るが、ジュンギュ君があの苦しみを知らなければそれでいい。



パク・ジョンヨルさん

「お父さん、いつロボットの足をつけるの」

車椅子にぶら下がって遊んでいた6歳の長男が目を丸くしてジョンヨルさんに尋ねた。2歳の次男は、ジョンヨルさんの腕に抱かれている。片足を失って帰ってきた父だが、子どもたちは2ヵ月ぶりに見るお父さんがただうれしい。一日遅れのクリスマスプレゼントのようだ。昨年12月26日、慶尚南道金海市(キョンサンナムド・キムヘシ)で血管を切断したジョンヨルさんが、手術医を探して忠清北道清州市(チュンチョンプクト・チョンジュシ)の忠北(チュンボク)大学病院に行ってから62日が経ったこの日、金海の自宅に戻った。

事故に遭ったあの日のことをジョンヨルさんは忘れることができない。血管をつなぐ手術が終わったのは翌日の午前2時。足を切断する可能性は90%だと言われた。血管が切断して6時間以上も彷徨ったのだから、仕方ないことだ。★しかし、ジョンヨルさんは最後まで希望を捨てなかった。血管がつながらず、2日間で2度も追加の手術が行われる間も10%の可能性を固く信じた。



忠北大学病院に到着して4日目、4回目の手術でジョンヨルさんは左足を切断した。

手術を受けて退院したジョンヨルさんは、慶尚南道昌原市(チャンウォンシ)の勤労福祉公団昌原病院に移った。そこで切断部位の傷が治るのを待って義足をつけることにした。

さすがに家族には言えなかったことだが、ジョンヨルさんは家より病院の方が楽だった。マンションのエレベーターに乗る時、ジョンヨルさんは息子を左足の前に立たせた。人々が自分の足だけを見ているようで耐えられなかった。家でも水を飲むのに松葉杖が必要で、トイレには這いずりながら行った。新しい仕事を探すこと、ビリヤードができないこと、子どもたちとキャンプに行けないこと…。左足のない自分の姿を受け入れることができないジョンヨルさんにとっては、優先となる心配ではなかった。

ふとした瞬間に腹が立った。なぜ自分が足を切断しなければならなかったのか聞きたい。自分のように足を切断した人のブログを探して書き込みを読んだ。ソウルで事故に遭い、ヘリコプターに乗って京畿道の病院に行ったという。「自分は一日中病院を探した挙句、救急車に乗って行ったのだが、自分が地方に住んでいるのが悪いのだろうか。息子が怪我をしたら、その時はどうしたらいいのだろうか。週末に怪我をしたら、月曜日にならないと医者に会えないのか…」。

こんな考えが頭をよぎり、眠れなかった。幻肢痛にも悩まされる。なくなった左足がしびれて、痛い。切れた血管が激動しているような感じもある。雨の日には、実体のない痛みがさらにひどくなった。長い夢だと思って目を覚ますと、1分しか経っていなかった。夢の中でジョンヨルさんは仕事をしていた。そこだけは、通っていた工場の風景がそのままで、ジョンヨルさんの両足も健在だった。



癒えない傷

イ・ジュンギュ君

先月10日、記者はジュンギュ君のリハビリ治療のために亜洲大学病院に来たユンヨンさんにインタビューした。

「ジュンギュは先週の木曜日に学校が始まりました。学校に行かせていいのかどうか、悩みました。ジュンギュの年齢の子どもたちは激しく遊ぶので、転んだりしたら…。でも、医師に送った方がいいと言われたので、勇気を出しました。その代わり、体調が悪くなったらすぐに電話するように言っています。

始業式の初日から頭が痛いと言っていました。少し授業を受けただけでも頭が痛いと。代替学校に通わせるべきか迷っていますが、ジュンギュを遠くに行かせることにはためらいます。ジュンギュも友達と離れたくないと言っています。病院にいるときは、友達の名前も覚えていなかったのに、今は友達に会えてうれしいと言っています。

仕事ですか。今はジュンギュが学校に通っているので、仕事には連れて行きません。私の代わりに末の子がジュンギュの面倒を見てくれています。末の子は今年中学生になりましたが、ジュンギュと同じ学校なので、一緒に登下校しています。長男も、ジュンギュの面倒を見てくれています。料理が得意なので、夕飯も作ってくれたりします。兄弟がいるので、心強いです。

ジュンギュは泳ぎに行きたいと何度もせがみますが、行かせてあげられません。転ぶんじゃないかと思って。もちろん私も胸が痛いです。本人ももどかしいはずです。体育の時間も一人で運動場に座っていたそうです。運動好きだった子が、友達がサッカーするのを見ながらですね…。でもやっぱり心配になります。経験したじゃないですか、子どもが倒れているのに誰も受け入れてくれないことを。絶対に怪我はさせられない。まだあの日のことを思い出すと…」



パク・ジョンヨルさん

事故から2つの季節が過ぎた先月17日、記者は昌原病院でジョンヨルさんに再会した。

「義足は4日前につけました。妻も義足をつけたのを今日初めて見ます。数日前に面会に来たのですが、無理して動いたため、その日は義足をつけられませんでした。歩く姿を見せようと思っていたのですが、今日見せなければなりませんね。

長いズボンを履くと義足がはみ出します。妻は目立たないようにマネキンの足を当てたたらどうかと言うんです。私が人の目を気にするのを知っているのでしょう。まだタバコを買いに行けません。幻肢痛も相変わらずで、今も突然不安に襲われます。

不思議なものを見せてあげましょうか。義足でもこうやって足が組めるんです。長男が見たらすごく喜ぶでしょう。ロボットの足が見たいって歌を歌っていましたから。子どものことを考えると、早く仕事をしないと。元の会社ですか。足を失った場所でとても仕事する気にはなりません。義足で重いものも持てないし、痛いんです。足を切ったところが固くなれば、痛みはなくなるそうです。良くなるでしょう。事故当時は紅葉が始まったばかりだったのに、今は桜が咲いていますね」



228分間の漂流を無力に見守ったあの日を思い出し、ユンヨンさんはこの日も涙を流した。378分間の漂流を無力にも経験したあの日の記憶で、ジョンヨルさんは今も精神科の薬を飲んでいる。泣く母を慰めるのが苦手なジュンギュ君は、笑顔で言った。「お母さん、僕は生きているよ!」。ジョンヨルさんの妻のミオクさんも、生きている、それだけで十分だと、ジョンヨルさんを慰めた。

ヒーローコンテンツチームが37日間で出会った26人の「漂流患者」のうち、3人は家族のもとに戻れなかった。



●戻れなかった人たち

チェ・ミョンヒ(仮名・59)、パク・ソンウ(仮名・66)、イ・ナウン(仮名・3)さんらは戻ることができなかった「漂流患者」だ。

京畿道に住むミョンヒさんは月曜日の夜、激しい頭痛で119番通報した。近くの病院で検査してみると、脳の血管が詰まっていた。頭蓋骨を開く開頭手術が必要だったが、この病院には開頭手術ができる医師がいなかった。2つ目のソウルの大学病院には集中治療室の空きがなかった。3つ目の京畿道の大学病院でやっと手術を受けたが、脳血管が詰まっているのを発見してすでに6時間が過ぎていた。ミョンヒさんは4ヵ月が経った今も植物状態だ。

「おばあちゃん、腕を貸して」。ソンウさんの孫は毎朝、この世にいない祖母を探す。孫は、ソンウさんの腕を枕にして抱きしめてからいつも一日を始めた。ソンウさんは昨年12月、自宅で食べ物が喉に詰まり、呼吸ができず心停止となった。小さな救急室で心肺蘇生を受けたが、昏睡状態に陥り、大病院に行かなければならなかった。4つの病院で断られ、3時間後に京畿道の大学病院に到着したが、息を引き取った。

ジュンギュ君と同じように痙攣で救急車に乗った3歳のナウンさんも1時間、受け入れてくれる病院を探し、亡くなった。近隣の11の病院が小児科医がいないという理由で受け入れてもらえなかった。

漂流を経験した患者が全国に何人いるのか誰も分からない。どの政府統計にも正確に把握されていない。



消防庁が出す「再搬送」の統計は、救急車が患者を乗せて直接救急室の前まで行って拒否された事例だけを示している。2021年は全国で7634人だった。ジュンギュ君の搬送時のように電話の問い合わせを拒否したケースは含まれないため、「漂流」のごく一部しか集計されない。救急隊の搬送問い合わせの電話を拒否した記録はどこにも残っていない。

ただ、京畿道消防災害本部が21年5~12月、救急室の受け入れを問い合わせた119救急隊の最初の電話が拒否された患者の数を内部的に集計した。6万9918人だった。消防庁の再移送統計に比べて期間が短いにもかかわらず、その数(7634人)の9倍を上回った。

ジョンヨルさんのように外傷を負い、手術を受ける病院を探す件数も正確に把握されていない。中央救急医療センターが発表する「4大重症救急患者転院率」の統計は、重症救急患者が最初に行った病院で治療を受けられずに転院した事例を示している。21年は1万7286人だった。しかし、救急治療室が何軒の病院に電話をかけたのか、転院決定後、何分後に最終治療病院に移されたかは集計されていない。どれだけの救急患者がゴールデンタイムを逃して命が危うくなったのか、知る術がないのだ。

このため、救急車に乗った患者が適時に適切な治療を受け、命が助かったかどうかを確認する方法がない。最終的に家族のもとに戻れなかったとしても、一行の記事すら出てこない。ジュンギュ君とジョンヨルさんの家族のように、残された家族の苦しみも語られないのは同じだ。

先月19日、大邱(テグ)でも高校生のAさん(17)が2時間12分、たらい回しに遭った後、心停止状態となった。息を引き取ったことが後になって伝えられた。やはり隠された死だった。このような死があとどれほどあるかは誰にも分からない。今この瞬間にも、私たちの家族、友人、隣人の誰かが経験しているかもしれない。